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 朱色が鮮やかな漆器、自然な風合いの織物、シーサーにサーターアンダギー。宮崎市には沖縄由来の工芸品や名物があり、沖縄出身者が多く住む街がある。「リトル沖縄」とも呼ばれる街は、なぜここに生まれたのか。

 JR宮崎駅の北東約3キロにある宮崎市波島地区。その一角に「宮崎漆器製作即売所」の看板を掲げた工房がある。併設された展示室には竜などの装飾が施された飾り盆、つぼ、おわんなどが所狭しと並ぶ。

 今年5月、宮崎県伝統工芸士に認定された谷口光男さん(60)が、県花ハマユウが装飾された弁当箱を見せてくれた。JR九州の豪華寝台列車「ななつ星」の昼食にも使われている高級品だ。

 実は、これら漆器は琉球塗の流れをくむものだ。漆を混ぜて粘りを出した顔料を薄く伸ばして張りつける「堆錦(ついきん)」と呼ばれる工法を受け継ぐ。「高温多湿な宮崎の風土が沖縄と似ていて漆の乾燥に適し、朱塗りの色が映える」という。

■疎開を余儀なくされた時代

 太平洋戦争末期、沖縄の多くの人が九州への疎開を余儀なくされた。宮崎も主要な受け入れ先の一つ。当時、波島地区には軍用機製造の川崎航空機工業(現・川崎重工業)の社宅でもある棟割り長屋が多くあった。ここに沖縄や奄美大島、さらに空襲が激しかった関西の沖縄出身者らも移り住み、次第に沖縄色の強い集落となった。

 宮崎沖縄県人会によると、戦後まもなくは沖縄出身者の世帯が300ほどあった。時代と共に減ってはいるが、今でも70世帯以上が暮らす。沖縄の魔よけシーサーを飾る家が多く、沖縄名物のサーターアンダギーを売る商店もある。

■琉球塗りの技術者も移住

 宮崎県は1947年、移住者らの仕事の場として県営授産場(現在は社会福祉法人が運営)を設置。54年から漆器製作が始まった。この時に中心となったのが、移住してきた琉球塗の技術者たちだった。

 漆器づくりの職人だった山内武さん(79)は戦時中、母親や弟と3人で沖縄本島の与那原(よなばる)町から宮崎市に疎開した。父と祖母を残し、荷物は黒砂糖や小麦粉だけという小旅行気分だった。だが、父と祖母は戦火で行方不明に。帰郷は断念せざるを得なくなった。授産場に入り、46年間にわたり漆工芸に携わった。

 「生まれ育った沖縄のことは一時も忘れたことはない。沖縄に負けないような製品を作ることを心がけてきた」と振り返る。

 波島地区の工房で織物製造を手がける大城規由(のりよし)さん(73)は、沖縄で織物の産地として知られる南風原(はえばる)町出身。小学3年の時、中国大陸から引き揚げて宮崎市に住んでいた叔父夫婦の養子となった。その後、一家で織物づくりを始めた。故郷沖縄の紬(つむぎ)織りの伝統を守る織物は、宮崎と琉球から一文字ずつとって「宮琉手紬(みやりゅうてつむぎ)」と名付けた。

 84年には宮崎手紬として県の伝統的工芸品に指定された。これを機に、宮崎に自生する山桜を染色に使うなど宮崎らしさも求めるようになったという。

 「沖縄の伝統のいいところは残して、宮崎で新しい伝統をつくっていきたい」(伊藤秀樹)