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 中学校の同級生と21歳で結婚し、2人の娘に恵まれた神戸市の会社員、岡本芳和さん(42)は今、妻の久奈さん(42)をドナーとする生体腎移植に向け、「準備」をしている。11年前、父の腎臓を移植したが、慢性拒絶反応があらわれ、再び透析生活になっていた。芳和さんの心情は複雑だ。加えて、再移植には、医学的な壁もあった。1回目の移植手術前、会社の企画で10年後の久奈さんに宛てた手紙を書いていたが、そこには「10年後、パパの病気がどうなっているかわからないけど、医療が発達して治れば・・・」とつづられていた。

 

■再移植に立ちはだかった壁

 2015年12月、ポートアイランドにある神戸市立医療センター中央市民病院の診察室。芳和さんの診察に付き添っていた久奈さんは、突然、腎移植後の経過観察を担当していた泌尿器科医長(現・北野病院泌尿器科主任部長)の岡田卓也さん(50)に言った。

 「夫はまだ40歳だし、私もまた一緒に旅行に行きたい。まだチャンスがあるんだったら、私の腎臓を移植して元気になって欲しい」

 芳和さんと岡田さんは驚いた。芳和さんは06年10月、31歳の時に父の守博さん(68)から生体腎移植を受けた。しかし、13年から再び腎機能が低下し、この日は、再び人工透析をしないといけない状態になっているという話を医師から聞いていた。

 芳和さんは「いらん。そこまでして生きたくない」と言い、岡田さんも「ちゃんと夫婦で話し合ってくださいね」と話し、この日の診察を終えた。

 1回目の移植前は、自宅で夜間に行える腹膜透析だったが、今回は透析病院で行う血液透析を週3回しなければならない。久奈さんがドナーを申し出たのは、1回目の移植後、ツーリングに行ったり、神戸マラソンを走ったりするほど元気になり、取り戻した日常生活と透析生活の間に、大きな落差を感じていたからだ。

 夫婦の話し合いは平行線だったが、再透析を始める前に、久奈さんがドナー適合検査をすることについては受け入れた。

 そこで再移植の壁があることが分かった。

 後日、中央市民病院に通院すると、ドナー適合検査の結果を見ながら岡田さんが言った。

 「ご主人は(拒絶反応を起こした)お父さんの移植腎に対する抗体を持っていて、奥様がたまたま、その抗体に反応する抗原を持っていました。このまま再移植しても、拒絶から移植腎の機能を再度失う危険が高い状況です」

 それは偶然だった。

 久奈さんは尋ねた。

 「もう移植できないんですか」

 岡田さんは丁寧に説明してくれた。

 「ハイリスク移植になるので、この病院ではできません。すごく研究していて日本でのトップクラスの広島大学病院を紹介しますから、一度話を聞きに行ってみませんか」

 芳和さんの胸中は複雑だった。

 「自分も親なので、娘が移植を必要とすれば絶対あげる。もらっても親なら『ありがとう』と言える。それが嫁さんとなると『はい、ありがとう』とは言えない。嫁さんの体に傷を付けるし、全然違った感情がある」

 こう感じながらも、年明けの2016年1月、久奈さんと一緒に広大病院移植外科の教授、大段秀樹さん(55)を訪ねた。

 

■「手遅れです」の意味が分からなかった

 腎蔵の機能が低下したが、芳和さんは「自覚症状はない」という。今でこそ体重が50キロ台、体脂肪率が5%程度だが、元々はスポーツマンで、体重も70キロ台だった。高校時代には、バドミントンの選手で活躍し、兵庫県代表としてインターハイや国民体育大会に出場した経験を持つ。高校卒業後に入社した会社でも実業団選手として活動するとともに、仕事でも長期の海外出張をこなしていた。21歳で中学校の同級生で初恋だった久奈さんと結婚し、まもなくして美桜さん(20)、美紅さん(18)を授かった。

 順風満帆だった芳和さんだったが、28歳の時、仕事帰りのJRの電車内で倒れた。救急車で運ばれた脳神経外科の病院では「異常がない」と言われ、その日のうちに自宅に帰された。後日、心配なので循環器の病院で心臓の超音波検査をしてもらうと腎臓が萎縮していると言われた。神戸市立中央市民病院(現・医療センター中央市民病院)で精密検査をしてもらうと、医師からこう告げられた。

 「腎不全です」

 治療法がないか尋ねると厳しい言葉が返ってきた。

 「手遅れです」

 「どうすることもできませんね」

 診察室の外で待っていた久奈さんの前にあらわれた芳和さんは、無表情で「腎不全やって」とつぶやいた。大きな病気をしたことがない芳和さんにとって、「手遅れです」という言葉の意味が分からなかった。

 会社の健康診断でも、これまで異常はなかった。芳和さんは「体力が持たないな」と感じることはあったが、年齢のためと考え、トレーニングをしていた。

 

■住宅ローン借りられず

 病気の発覚で生活は激変した。小学校入学前の子どもを抱え、新築マンションを購入しようとしていた。しかし、金融機関からの住宅ローンの条件となる団体信用生命保険に加入できなくなった。もう一つは、人工透析になると生活がどう変わるのか、イメージできなかった。

 「なってもうたもんは、しゃあない」

 芳和さんは覚悟を決めた。住宅ローンは会社の融資に切り替え、乗り越えられた。

 中央市民病院では後日、医師からまず食事制限から始めることを伝えられた。

 「治すことができない病気だけど、すぐ死ぬ病気ではありません。まず食事制限で今の状態をどこまで延ばせるか、やってみましょう」

 たんぱく質をとりすぎると、腎臓から排泄(はいせつ)される尿素窒素やクレアチニンが多くなり、腎臓へ負担になるためだ。

 久奈さんは、管理栄養士のアドバイスを受け、たんぱく質、カリウム、塩分などの摂取を制限した食事を作った。ただ、食品に含まれるたんぱく質や塩分などの量は簡単に分からない。お米は低たんぱく米に変え、肉や魚は目安として1回20グラムの量にした。カロリーは、油ものやコカ・コーラでとるようにアドバイスされた。会社には、俵型のおにぎり2個を持たせた。芳和さんも「数年でも長持ちさせないといけないな」と考えて我慢した。会社の歓送迎会に出席しても、ウーロン茶だけで耐えた。筋肉は落ち、体重は2カ月経たずに20キロ落ちた。

 入社が同期の仲間たちとは、毎年、忘年会か新年会で集まるが、海外での移植も想定し、有志でジャンボ宝くじを買ってくれていた。

 

■お父さん、腎蔵ありがとう

 中央市民病院の腎臓内科には、月1回の割合で通院するようになった。腎臓の機能低下の程度を把握するため、血液中のクレアチニンの濃度を調べる検査などをするためだ。数字に、一喜一憂する生活が始まった。

 クレアチニンの値は、普通の人だと1mg/デシリットル未満だが、倒れた時は2・2あった。医師からは、5を超えると回復が難しくなり、8~9になったら人工透析を考えないといけないと言われた。

 値は徐々に上がっていった。

 「これ以上の食事制限をしたら、食べるものがなくなる」と、久奈さんは感じ出していた。値が10を超えた2004年、29歳の時に自宅で夜間にできる「腹膜透析」を始めた。芳和さんは「精神的には食事制限より透析の方が楽」と感じた。それほど、食事制限は厳しかった。

 定期検査で中央病院を受診すると、ある日、腎臓内科の医師に「移植すれば、元の生活に戻れる」と言われた。看護師も「一度話を聞いてみたら」と背中を押した。ただ、芳和さんは、生体腎移植を簡単に受け入れられなかった。「ドナーになる家族に、万が一のことがあったら……」と感じていたからだ。

 それでも兵庫県伊丹市で暮らす両親の家を訪ねて打ち明けてみた。脳死での腎移植は、順番を待つために登録しても平均で10年以上かかることを説明した。父の守博さんは50代で働いていたが、ドナーになることに前向きだった。守博さんは「一回、ドナーの適合検査しようか」と言ってくれた。妻の高子さん(66)と一緒に検査を受け、2人とも医学的に問題なかった。

 芳和さんの気持ちは、「健康な腎臓が欲しいけど、自分から家族に言えない。父が言ってくれたからお願いできた」と複雑だった。

 06年10月、中央市民病院で生体腎移植を受けた。1カ月で退院した。免疫抑制剤やステロイド剤を1日2回飲み続けなければならないが、それまでの食事制限や腹膜透析の生活とは全然違った。

 「腎臓が悪くなって、おしっこが出にくくなっていたが、ちゃんと出る。疲れない。食べられるのでスポーツができる……」

 移植で入院していた時に見舞いに来てくれた地元の先輩に、ツーリングに誘われた。退院後、免許をとる前にハーレーダビッドソンの大型バイクを買った。久奈さんは内心、「移植腎がいつまでも持つわけじゃない」と思っていたため、好きなことをやることに理解を示した。芳和さんは「これまでしんどい生活を送ってきたので、バイクで一緒に旅行しよう」と久奈さんにも声をかけた。

 

■「何のために移植したの?」

 移植後、芳和さんは、どの程度まで普通の生活をしていいのか、少し戸惑っていた。医師に尋ねると、「何のために移植したの? お酒を飲んでもいいし、普通に食べてもいいよ」と言われた。腎機能の目安となるクレアチニンの血中濃度の数値も、移植後は1・5に下がっていた。

 移植から3年半経った10年5月のゴールデンウィーク。芳和さんは、九州にツーリングに出かけた。ただ、この頃、久奈さんの胸の中では心配が膨らみ、夫のブログにこう書き込んだ。

 「ツーリングにゴルフ。飲み会で午前様もしばしば。黙っていれば好き放題やってくれています。最近は体のことが心配になっています。父からもらった大切な腎臓、1分1秒でも長持ちするように……」

 だから時々、けんかにもなった。

 11年1月、夫婦でテレビ番組を見ていると、ホノルルマラソンの映像が流れた。

 「一緒に出られたらいいね」

 久奈さんがつぶやいた。「ハードなスポーツはいけない」と医師に言われていたが、この年の秋、神戸マラソンの10キロの部に参加した。夫婦で手をつなぎながらゴールした。

 経過は順調だったが、12年11月、38・2度の熱が出た。1週間後にあった定期検査でクレアチニンの数値を調べると、2・07に上昇していた。後日の再検査でも1・92。腎生検をして電子顕微鏡で組織を診た結果、急性拒絶反応だった。入院してステロイド剤を投与。クリスマス前には1・81まで下がり、退院できた。

 

■移植7年で慢性拒絶反応

 移植から7年になる13年9月には、恐れていた慢性拒絶反応が出てきた。入院して血漿(けっしょう)交換するなどの治療をしたが、数値は2・17あり、改善しなかった。それからは通院での検査のたびに数値が上がっていった。

 14年1月、久奈さんがポストを開けると、芳和さんが差出人の一通の手紙があった。封を開けて読んでみると、10年前に芳和さんが10年後の久奈さん宛てに書いた手紙だった。

 「今から楽しくなるという時にパパが倒れ、久奈や家族には大変苦労をかけたことを申し訳なくもいます。病気じゃない久奈まで体重が減ってしまうまで心配をかけてごめんな。美桜、美紅にもつらい思いばかりさせていると思います」

 「久奈には絶対幸せにするからとプロポーズしてから丸7年、出張ばかりで子育てもせず、病気になり、迷惑ばかりかけています。これからも家族みんなが幸せになれるように努力するので大変でしょうが頑張って付いてきてください。必ず幸せにしてみせます」

 久奈さんは号泣し、すぐ出張先の芳和さんのスマートフォンに電話をかけた。「なんとも言えない感情だった」

 いつ、透析生活に戻るか分からない。家族との時間を大切にしたいと、14年8月には親戚の結婚式があるハワイに出かけた。芳和さんは「家族との海外旅行はこれが最後になるのかな」と感じた。

 

■再透析前に心の整理

 久奈さんは、少しでも移植腎を持たせようと、再び食事制限を始めてみた。ただ、効果はなかった。芳和さんは、「長い人は20年もつけど、10年近く普通の生活ができた。透析しながら働いている人もいる。考えても治らないし……」と考えるようにし、心の整理を始めた。

 15年7月には、長女の美桜さんが語学留学していたフィリピンのセブ島に家族旅行し、シュノーケリングを楽しんだ。腎機能は落ちていたが、「自覚症状はなかった」からだ。ただ、毎月のクレアチニン検査では、数値がどんどん上がり、再透析が目前に迫ってきた。

 15年12月、中央市民病院で医師と再透析などの話をしていると、久奈さんが突然、言った。

 「まだチャンスがあるんだったら、私の腎臓を移植して元気になって欲しい」

 再移植で、夫婦間での生体腎移植をするために、ドナー適合検査を求めた。

 臓器移植ネットに登録して、脳死や心停止をした人からの腎臓提供を受けることも考え、兵庫県内で経験が豊富な病院に話を聞きに行ったが、透析を始めてからの登録になると言われた。平均待機日数や登録のための検査費用や毎年かかる費用を考えると、これから10年以上も待つのは現実的ではないと判断した。海外での移植もあると言われているが、移植後のケアが難しい。がん治療で取り出した腎臓を修復して、別の腎臓病患者に移植する「病気腎移植」も脳裏に浮かび、夫婦で話したが、リスクを考えると前向きになれない。久奈さんは、40代の充実した人生を送らせてあげたかった。血液型は違うが、インターネットで調べると、夫婦間で血液型不適合の移植も行われていることが分かった。

 この時期に久奈さんが決断したのは、2人の娘が成長し、少なくとも今、娘たちが腎移植を受けなくてはいけないリスクを抱えていないことが大きい。「子どもたちに移植が必要となれば、親はだれでも子どもを優先するでしょう」と考えていた。

 再透析を前にした芳和さんはこの頃、家族や腎蔵をくれた父の守博さんに感謝しつつ、悩みも抱えていた。

 「この事実をおやじに伝えるのがつらくて、どう伝えたらいいか……」

 実家を訪ねてきた芳和さんから話を聞いた守博さんも、「あっ、そうか」とだけ答えた。

 「自分の腎臓が悪かったのかなと思って、『がんばれよ』とも言えなかった」

 

■オーバーナイト透析に救われる

 この年の年末、クレアチニンの値が14になり、再透析が始まった。まもなくして、週3回、透析病院で深夜から早朝までの寝ている時に行う「オーバーナイト透析」を知り、切り替えた。仕事への影響を避けたかった。

 同時に、中央市民病院で経過を診てくれていた泌尿器科医長(現・北野病院泌尿器科主任部長)の岡田卓也さん(50)の勧めで、年明けの16年1月、広島大学病院移植外科の教授、大段秀樹さん(55)に相談に行った。医師主導の臨床試験での治療をしているためだ。妻がドナーになることにためらいは残っていたが、準備はしておくことにした。

 この年の夏、広島大学病院で、再移植に向けた「準備」が始まった。移植腎を拒絶する原因になっている抗体を除去する治療だ。1カ月入院して、血液型不適合移植の拒絶反応を抑える薬「リツキシマブ」を投与。17年夏も入院し、免疫抑制剤「サイモグロブリン」を投与した。

 大段さんのところには、全国から難しい患者が集まる。抗体除去しての再移植は、早い人だと1カ月でできたが、長い人だと3年かかった。大段さんは「完全に抗体を除去するには時間をかけないといけない。あきらめなければ、いつか再移植できるのでがんばりましょう」と声をかける。

 8月10日、芳和さんは予定よりも1週間ほど早く退院し、神戸の自宅に戻った。次の治療は12月の年末からの予定だ。

 「治療を始めないと、何かあったときにすぐ移植できない。まずは、いつでも移植できる状態に持って行って欲しい」と願う久奈さんの希望を受け入れて始まった広大病院での治療。妻からの再移植にはまだ戸惑いがある芳和さんだが、時間の経過とともに「今は70%は受け入れられるようになった」という。

 残りの30%は、腎臓が一つになってしまう久奈さんや子どもたちが、将来、腎臓病になって困らないか、といった不安だ。「今は健康だけど、嫁さんが体調を崩したら、家族ごとつぶれてしまう」「自分よりも、嫁さん、子どもたちが幸せだったらいい」という思いだ。

 

■情報編:平均待機日数12年超え、9割が生体腎移植に

 生体腎移植を受けた岡本芳和さんは、10年を経たずに再び透析になり、再移植の準備をしている。腎移植ができる慢性腎不全は、同じように生体移植が多い肝臓と違い、透析という治療の選択肢があるのが特徴だ。

 1980年、心停止した人の臓器提供を可能にする「角膜及び腎臓の移植に関する法律」が施行。97年には、脳死後も可能にする「臓器の移植に関する法律」が施行され、ドナーの対象が広がった。

 日本移植学会の「ファクトブック2016」によると、15年の移植件数は全体で1661例。透析患者数32万人、臓器移植ネットワーク(臓器移植ネット)に登録する移植希望者1万2825人と比べるとわずかだ。ドナー別にみると9割近い1494例が生体移植だった。夫婦間や血液型不適合、高齢者の移植が増えている。脳死や心停止したドナーからの移植の平均待機日数は、12・7年だ。

 レシピエントは30代~60代が中心。

写真・図版

 

 新潟大学医歯学総合病院の移植医療支援センター副部長、齋藤和英さん(56)は、「臓器移植ネットの登録者には、おそらくドナーになってくれる身内がいない人が多いのだろう」とみる。登録者以外にも「待機日数が長くてあきらめる人や、移植の選択肢を示されていない人もいるだろう」と話す。

 血液型不適合の移植は、厚生労働省が16年、拒絶反応を抑制する薬「リツキシマブ」の効能・効果を腎移植と肝移植で認めた。欧米では脳死での臓器提供が多く、待てば適合するドナーが見つかる可能性が高い。脳死移植のドナーが少ない日本では、血液型の異なる親族間による生体腎移植・肝移植のニーズが高く、拒絶反応の予防のため、血液型に対する抗体除去治療が開発された。

 広島大学病院移植外科教授、大段秀樹さんも開発に携わった一人だ。血液型が一致していても、血液中に抗体があって臓器にくっつく場合、拒絶反応を起こすため、移植できない。再移植や妊娠歴がある人で起こることがある。ここを乗り越えようと、問題の抗体を作っている細胞だけを一時的に除去する治療法の標準化に取り組む。まだ、医師主導の臨床研究の段階で、「安全に行うには、時間をかけないといけない」と話している。

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<アピタル:患者を生きる・移植>

http://www.asahi.com/apital/special/ikiru/

(岩崎賢一)

岩崎賢一

岩崎賢一(いわさき・けんいち) 朝日新聞記者

1990年朝日新聞社入社。くらし編集部、政治部、社会部、生活部、医療グループ、科学医療部などで、医療を中心に様々なテーマを生活者の視点から取材。テレビ局ディレクター、アピタル編集、連載「患者を生きる」担当を経て、現在はオピニオン編集部。『プロメテウスの罠~病院、奮戦す』、『地域医療ビジョン/地域医療計画ガイドライン』(分担執筆)