【動画】甲子園ベストゲームセレクション静岡 1968年決勝、静岡商―興国
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 (1968年決勝 静岡商0―1興国)

 もうすぐ半世紀が経つ。入道雲を見上げながら、新浦寿夫はあの夏を思い起こしていた。「そんなこともあったなって、ちょっとしんみりしちゃうな」

 1968年の第50回全国高校野球選手権大会。新浦は、静岡商の1年生エースとして甲子園のマウンドに立っていた。1回戦から準決勝までの5試合で計2失点。そして、迎えた決勝の相手は大阪・興国だった。静岡商は28年創部。54年以来2度目の決勝で、初の全国制覇がかかる大一番。学校関係者だけでなく、静岡県民の期待も、その左腕に寄せられた。「すごく盛り上がっていた。でも、僕はとくに重圧も感じず、いつも通り、『はいはい投げますよ』という感じで捕手のミットだけをめがけて腕を振っていました」

 一回を内野ゴロ三つで三者凡退に抑えると、リズムに乗った。183センチの長身から角度のある速球とカーブを低めへ集めてゴロの山を築いていく。だが、相手の下手投げの変化球投手・丸山朗も負けていない。息詰まる投手戦が続いた。

 試合が動いたのは五回。1死一塁から興国の9番打者の打球が目の前に転がってきた。併殺だ。そう思われる打球だったが、新浦は二塁へ送球するそぶりも見せずに一塁へ。2死二塁となった。「僕の凡ミス。自分の中で走者がいるという感覚がなくて。とにかく1人でもアウトにすればいいんじゃないかと。声の連係なのか、今でも定かではないんですけどね」

 わずかな隙が命取りになった。直後、この試合で初めて外野へ打球が飛んだ。1番打者に左中間へ適時打を浴びて失点した。

 このまま、0―1で試合が終わった。新浦は8回を投げて5安打1四球、好投したがこの1点が重かった。「静岡の野球ファンに大変申し訳ないことをしてしまった」。この大会は全6試合、53イニングを1人で投げ抜いて3失点。防御率は0・34で、その名を全国にとどろかせた。だが、「二塁へ放っておけば……」。あのワンプレーを思い出すと、今でも悔しさが込みあげてくる。

 それまで、新浦は野球にのめり込んでいたわけではなかったという。「周りの人たちと比べると野球をあまり知っているほうではなかったし、本当に野球というものを深くまで好きだったのか。ただクラブ活動の一環で野球やっていたら、たまたま準優勝したというのが正直なところだった」。「1年生エース」と騒がれたが、定時制の1年次を修了後に全日制の1年次に編入したから年齢は2年生と同じ。注目されるのも好きではなかった。

 興国に敗れて準優勝に終わったことで、逆に野球への情熱がかき立てられた。試合後、チームメートが甲子園の土を集めている姿を見て、新浦は思う。「おれはまた来年も来るんだ。だから、泣かなくていいんだって、みんなまた連れてくるからって」。土は持ち帰らなかった。

 ところが、韓国籍だった新浦に思わぬ展開が待っていた。当時のプロ野球の制度では、外国人は日本の高校に在学してもドラフト会議にかける必要がなかったため、プロの球団が獲得に押し寄せてきたのだ。結局、静岡商を中退してドラフト外で巨人へ。この大会が高校時代は最初で最後の甲子園となった。

 巨人や大洋(現DeNA)など日本球界で通算116勝を挙げ、41歳で現役を引退した。いまは静岡商でコーチを務め、後輩たちの指導にあたっている。「子どもたちを甲子園に連れて行くのが最高の夢。考える力をつけて、後悔のない野球生活を送ってほしい」。高校球児のように黒く日焼けした顔で、一つのプレーの重みを伝えている。(山口裕起)

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 新浦寿夫(にうら・ひさお) 静岡県で育ち、1968年夏、静岡商の1年生エースで準優勝。中退し、巨人にドラフト外で入団。韓国球界でもプレーし日韓通算170勝。現在は静岡商のコーチ。

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