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 「転機は母親の死だった」。37年ぶりのリーグ連覇を果たした広島カープ。緒方孝市監督の父義雄さんに、息子の野球への情熱や姿勢などについて語ってもらった。

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 昨シーズン後の年末年始も鳥栖に帰ってきました。敗れた日本シリーズについて「惜しかったね。日本ハムの監督さんの作戦が3戦目から変わってきたね」と言ったけど、本人は黙っていて答えませんでした。悔しがっている感じは受けましたよ。「次は日本一になってくれ」と伝えたら、うなずいていました。

 現役の時から、野球のことはあんまり言いませんから。「体の方はどうだね」って、そんなことしか話しませんね。監督に就任する時も報告はありませんでした。私が「大変なことを仰せつけられたね」って言ったら、ちょっと顔を動かす程度ですね。

 引退のときも突然でした。2軍戦の後に帰ってきたら「強いボールを投げられん」って。センターだったけど、性格として一塁手とかはできんかったんでしょうね。親としては1年でも2年でも長くやってもらいたいなっていう気持ちがあったんですけどね。

 1996年に結婚した時もびっくりしました。「ちょっと話を聞いてくれ」って突然帰ってきた。嫁さんの話。かな子さんは、ちょっと私のイメージと違ったもんだから。家内も「芸能人だけはやめなさい。思いやりがないとあかんよ。顔は二の次よ」って言っていたので。今は、かな子さんに感謝していますよ。鳥栖にも来てくれますし。

 気が短いんじゃないかと幼少時代から見ていました。それを表に出さないんですね。印象に残っているのは、小学4年ごろのことです。友達が新しい自転車を買ってもらったり、乗ってきたりするじゃないですか。「お母さん、自転車を買ってくれ」って。家内が「ちょっと待っとらんね」って言ったんですよ。そうしたら新聞配達を始めた。家内が自転車を買ってやっても、小学校を卒業するまで続けましたよ。決めたことはやり遂げる。

一度は断ったプロ入り

 野球を始めたのは小学3年くらいから。周りがやっていたからでしょうね。テレビで甲子園に出た鳥栖高校を見て、「鳥栖高で野球したいから塾に行きたい」って言い出した。

 人生の変わり目っていうのはすごいですよね。鳥栖高が甲子園に行っていなかったら、孝市はプロ野球選手になっていないかもしれないですね。孝市の市は、店名の魚市場から取ったんです。長男なので魚屋を継いでもらいたいと思っていたから、「鳥栖商に行きなさい」って言ってたんですけどね。

 鳥栖高の平野(国隆)監督は恩師でした。情熱があり、野球だけでなく人間性にも厳しかったですね。高3の夏の大会が終わってから、平野監督がカープのスカウトを家に連れてこられたんですよ。名刺いただいてびっくりですよ。「どうしても取りたい」って。身長は181センチになっていましたけど、細かったんですよ。甲子園にも届かなかったからプロにやる気持ちもなかったですし、断りました。「ありがてえですけど、そんな気持ちはうちの息子にはないはず」ってね。雲をつかむような話。セレクションを受けて、東京の大学も決まっていましたので。

 カープが来たのが最初で、10球団くらいから話がありました。結局、孝市が平野監督と相談してプロ入りを決めました。

母の死が転機に

 家内は95年6月に大腸がんで亡くなりました。52歳でしたかね。孝市はプロ9年目で、転機やったんやないでしょうか。試合のない月曜日に鳥栖に突然帰ってきたんですよ。病院のベッドで家内の両手をしっかりと握りしめた。家内は目を開けませんでしたけど、手が動きました。医師の先生も「十分に分かっておる」って。そのあくる朝8時に亡くなりました。

 あそこからでしょ、レギュラーに固まったのは。母親への思いが頑張りにつながった。お墓の周りには、盗塁王とか獲得したタイトルの文字を入れた石を並べています。もちろん、リーグ優勝も。家内も喜んでいると思います。(構成・吉田純哉)