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 慰安婦問題について日韓両国政府は昨年末、「最終的かつ不可逆的解決」とすることで合意した。元慰安婦の名誉と尊厳の回復のため協力して事業を行うと決めた一方、両国社会の間の認識のずれを改めて意識させるきっかけともなった。

 その一つに、挺身(ていしん)隊と慰安婦の混同がある。日本でいう「慰安婦」と戦時中に女子学生らを工場労働などに動員した「女子勤労挺身隊」は、まったく別だ。しかし韓国では長らく慰安婦が「挺身隊」の言葉で認識され、朝日新聞を含む日本の各メディアも一時期、混同して報じた。

 日韓両国のいずれにも慰安婦の人数を示す公的記録がないことも、混乱の一因となった。全体の規模を推定する手がかりは研究者の推計しかなく、明確な根拠は示されていない。

 慰安婦問題が韓国でどのように報道されてきたのか。慰安婦問題の伝えられ方について調べた韓国在住の言語心理学者・吉方(よしかた)べき氏(42)に話を聞き、論点を整理した。

 ■戦後早くから、日本と異なる意味で報道 総数「20万人」説、対象や期間にズレ

 ――韓国で慰安婦問題の報道について調査したいきさつは。

 吉方 言葉の認知される過程などを研究する言語心理学を専攻し、韓国紙記事を日本語に翻訳する仕事をした経験から、慰安婦問題をめぐる日韓の認識の違いに関心を持ちました。第2次大戦以降の韓国内の言説を検証しようと、主要紙記事データベースを検索し、図書館で新聞や書籍、テレビ放送などを調べ、3千~4千本に目を通しました。内容の真実性を検証するのではなく、どんな表現で記述されたかを調べました。

 ――分かったことは。

 吉方 韓国社会で戦後早い時期から「挺身隊」と「慰安婦」の区分があいまいな例が見つかりました。

 日本人により中国に連れて行かれた朝鮮人女性を終戦後に保護したという1946年5月のソウル新聞記事(資料〈1〉)。〈娘たちを女子挺身隊または慰安部隊という美名のもとに、日本はもちろん、遠く中国や南洋などに強制的にあるいはだまして送り出した事実を指摘できるだろう。歯がみするようなこの事実を、我々はまだ記憶している。この淪落(りんらく)の淵(ふち)にさまよっていた彼女たちは光復(終戦による朝鮮解放)後、どうなったのだろうか〉(翻訳は吉方氏による)

 62年10月の京郷新聞投書欄(資料〈2〉)。〈日本が敗戦し引き揚げる際、シンガポールでもう一つ胸が張り裂けそうな光景を目にした。遊郭街にいたある韓国女性の訴えだ。「私は挺身隊として連行され、日本人の慰み物として連れ回されたあげく、捨て置かれました」〉

 PANA通信社(現・時事通信社)の岡村昭彦特派員が64年3月、東亜日報に寄稿したルポ(資料〈3〉)では、韓国人の漁船船長の言葉が紹介されています。〈「大東亜戦争の時に韓国人の娘たちは18歳から20歳まで挺身隊という名前で連行され、結局は全てが軍隊の娼婦(しょうふ)にされてしまったんですよ」〉

 これらの記述から、韓国の新聞各紙では、日本の新聞に慰安婦についての記事が出始める80年代よりも早く、終戦直後から60年代前半ごろまでには「挺身隊の名のもとに女性が連行され慰安婦にされた」という共通の認識が成立していたと推定されます。

 ――韓国社会では戦後ずっと「挺身隊」が「慰安婦」と混同されていたということですか。

 吉方 ええ。一方「慰安婦」は、50~80年代の韓国紙では、主に外国人兵士に対する性産業従事女性の意味で使われた記事の方が圧倒的に多くみられます。「米軍相手の韓国人慰安婦」がその一例です。

 朝鮮半島では戦前から「挺身隊の名で連行され慰安婦にされる」といううわさがありました。日本軍の慰安婦とされた女性を他の軍隊の慰安婦と区別し「挺身隊」と呼ぶ用法が定着したためか、「慰安婦」や「挺身隊」という言葉が、日本と異なる意味でも理解されてしまったようです。

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 ――慰安婦の人数を示す公的資料が日韓両国にない中、諸説の一つにすぎない「20万人」という数字は韓国内でどう伝わったのでしょうか。

 吉方 歴史学者の文定昌(ムンジョンチャン)氏が67年に出版した歴史書(資料〈4〉)にはこう記されています。〈1933年ごろからは花柳界の朝鮮人・日本人女性たちを慰安婦という名称で満州から北支(中国北部)方面に出動させたが、その数は世間では二〇〇千人と言われたものであり、41年ごろからは良家の乙女たちを強奪して女子挺身隊という名をつけ、どこかへと連行し始めた〉

 文氏の本では日本人と朝鮮人を合わせて「200千人」、つまり「20万人」という認識でした。一方、在日朝鮮人の金一勉(キムイルミョン)氏が76年に日本語で出版した著書(資料〈5〉)ではこんな表現になっています。〈「日本軍隊の慰安婦」といえば、その八割~九割までが、うら若い朝鮮女性であった〉〈その数を「推定二〇万」と挙げるむきもある〉

 韓国の評論家林鍾国(イムジョングク)氏は81年、金氏の著書とほぼ同一内容の編訳書(資料〈6〉)を韓国語で出版しました。このころから「慰安婦は20万人で、その多くが朝鮮人」という言説が韓国で広まった可能性があります。

 ――「20万人」という数字は日本のジャーナリスト・千田夏光氏の著書の影響だという説もありますね。

 吉方 千田氏は73年の著書「従軍慰安婦」(資料〈7〉)でソウル新聞の記事を紹介するとして〈1943年から45年まで、挺身隊の名のもと若い朝鮮婦人約20万人が動員され、うち“5万人ないし7万人”が慰安婦にされたとある〉と書きました。

 出典とみられる70年8月のソウル新聞記事(資料〈8〉)には〈挺身隊に動員された韓日両国の女性はあわせて20万人ほど。このうち韓国の女性は5万~7万人と推算されている〉とあります。ソウル新聞には「韓日で計20万人」と書かれていたのに、千田氏が「朝鮮人20万人」と取り違える誤読はあったようです。

 ただ、ソウル新聞は〈挺身隊の名の下で多くの婦女子たちを動員、軍需工場の職工や前方部隊の慰安婦として犠牲にした〉として、慰安婦に重点を置いて解説しています。「5万~7万人が慰安婦にされた」との千田氏の記述は正確さに欠けるものの、元の記事を大きく逸脱した解釈ではありません。千田氏は慰安婦が「20万人」とは書いていないので、「20万人説の起源」とも言えないと思います。

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 ――「強制的に連れ去られた」とのイメージも以前からあったのでしょうか。

 吉方 63年8月の京郷新聞の寄稿記事(資料〈9〉)には「(意に反して)引っ張っていく」という意味の韓国語「クルゴカダ」が使われており、「年頃の娘たちを戦線に連行した」と翻訳できます。記事につく挿絵には、チマ・チョゴリを着た女性が屈強な男に手をつかまれて連れ去られ、家で親らしき大人が泣く場面が描かれています。

 84年3月、元朝鮮人慰安婦の盧寿福(ノスボク)さんが戦後も帰国せずタイに残っているとわかりました。韓国KBSがバンコクから衛星中継し、韓国のメディアが大きく報じました。中央日報は「私は女子挺身隊」の題で半生記を11回連載(資料〈10〉)。「数人の日本人巡査に押し倒され、縄で手を縛られ連行されていった」「ウサギ狩りのような人狩りにかかった」と盧さんの証言を紹介しています。

 70年代末から80年代半ばにかけ、盧さんら元朝鮮人慰安婦が公に証言を始めたことは韓国社会に強い印象を与え、日韓政府に慰安婦問題の対処を求める動きが活性化する素地を作ったといえそうです。(聞き手 編集委員・北野隆一)

     *

 吉方(よしかた)べきはペンネーム。岡山県出身。群馬大医学部中退、韓国ソウル大編入。同大学院で実験心理学専攻。朝鮮日報日本語版サイト翻訳監修を務め、現在はソウル大「言語と思考」研究室に所属し、韓国仁徳大非常勤講師。

 

 ■戦時中の朝鮮、広がった「うわさ」

 朝鮮半島で、挺身隊と慰安婦の混同はなぜ、どのように起きたのか。

 日本国内で「挺身隊」とは本来、戦時下の日本や旧植民地で、主に若い未婚女性を労働力として軍需工場などに動員するため組織された「女子挺身隊」や「女子勤労挺身隊」をさす。目的は労働力の利用であり、将兵の性の相手をさせられた慰安婦とは別のものだ。

 勤労挺身隊は44年8月の「女子挺身勤労令」で国家総動員法に基づく制度となったが、それ以前から法令によらない動員もあった。日本内地では終戦時、47万人が挺身隊として動員されていた(資料〈11〉)。

 終戦までの朝鮮での挺身隊の人数について、高崎宗司・津田塾大名誉教授は、国民学校や高等女学校の生徒ら「多くて4千人止まり」と推算。挺身隊が朝鮮で約20万人いたという説は「とうてい成り立たない」と書く(資料〈12〉)。外村大(とのむらまさる)・東京大教授は「若い女性が朝鮮だけで20万人も一度に動員されたら、社会に相当大きな影響を与えたはず。そんなに多くなかったのではないか」と語る。

 朝鮮での混同は戦時中からあり、日本政府も把握していた。44年7月に閣議決定された朝鮮総督府官制改正の説明資料には、未婚の女性の徴用をめぐり〈中には此等(これら)を慰安婦となすが如(ごと)き荒唐無稽なる流言巷間(こうかん)に伝わり〉(資料〈13〉)との記述がある。

 藤永壮(たけし)・大阪産業大教授によると、日本政府に動員された朝鮮人女性が軍に奉仕させられるとのうわさが朝鮮総督府の警察や裁判資料に記録されているのは、日中戦争が本格化する38年3月からという。

 軍での炊事などの雑役や、負傷兵に輸血するための採血といった内容に、将兵の性の相手をさせられるとの内容が加わり、朝鮮南部を中心に広がったという(資料〈14〉)。

 戦時中の朝鮮でうわさが拡散した背景について外村氏は「挺身隊は朝鮮でも宣伝されたが、実際に動員された女性は少なく、実態が知られないまま『女性が日本人に連れて行かれる』というイメージが膨らんだのではないか」。藤永氏は「『流言』として処罰された事件の中には、実際に中国で慰安婦をさせられた女性の体験談とみられる話もあった。朝鮮総督府が取り締まってもうわさがやまなかったのは、朝鮮の人々に日本への不信感が根強かったことを意味しているのではないか」と考えている。

 

 ■92年に韓国政府「概念区分を」

 韓国で挺身隊と慰安婦が混同されたことにより、どんなことが起きたのか。

 韓国では両者が混同され、戦時中に勤労挺身隊として工場で働いたという女性が、慰安婦と誤解されるため、なかなか名乗り出られないこともあったという。

 尹貞玉(ユンジョンオク)・韓国梨花女子大名誉教授を共同代表として90年に元慰安婦支援団体「韓国挺身隊問題対策協議会」(挺対協)が設立された当初、「被害者申告」を受け付けたところ、勤労挺身隊と慰安婦の経験者がそれぞれ名乗り出た。両者を区別する必要が認識され、挺対協も慰安婦を「日本軍慰安婦」などと呼ぶことにした(資料〈15〉)。しかし韓国社会では慰安婦問題が「挺身隊問題」として定着し、元慰安婦の多くが「私は挺身隊だった」と語っていることから、団体の名称は変えずに現在に至っているという。

 92年1月、韓国の通信社が、戦時中の朝鮮で国民学校に通う12歳の朝鮮人少女が挺身隊に動員された学籍簿が見つかったとの記事を配信。「日本は小学生まで慰安婦にした」との誤解が韓国社会で広がった。これをきっかけに、ソウル駐在の日本人特派員らが韓国で挺身隊と慰安婦が混同されていると記事で指摘した。

 韓国政府は92年7月に発表した報告書で〈わが国では勤労挺身隊と軍隊慰安婦が混用され、一般的に挺身隊と通称しているが、概念を区分して使用する必要がある。勤労挺身隊は、女性の労働力までも軍需工場に動員したことであり、軍隊慰安婦の調達とは違う〉(資料〈16〉)と書いた。ただ、この報告書にも慰安婦問題の意味で「挺身隊問題」と繰り返し記され、その後も韓国社会での混同は残った。現在は区別されている。

 外村氏は「勤労挺身隊は当初、政府の指導で結成され、44年からは国家総動員法と女子挺身勤労令にもとづいて組織された。法的根拠があいまいな慰安婦よりも、日本の政府としての関与が明確といえる。ただ韓国で挺身隊という言葉が使われた際、民衆レベルで制度への理解があったとは考えにくい」と話している。

 

 ■朝日新聞の報道は

 朝日新聞は1980年代以降、慰安婦問題をめぐって〈主として朝鮮人女性を挺身隊の名で強制連行した。その人数は8万とも20万ともいわれる〉(92年1月11日付朝刊)などと記しました。

 朝日新聞社の委嘱で、朝日新聞の報道について検証した第三者委員会は2014年12月に発表した報告書で〈「挺身隊として『強制連行』された朝鮮人慰安婦の人数が8万人から20万人」であるかのように不正確な説明をしている点は、読者の誤解を招くものであった〉と指摘しています。

 混同の理由について第三者委員会は〈集積された先行記事や関連記事等から抜き出した情報をそのまま利用したものと考えられる〉としたうえで〈当時は必ずしも慰安婦と挺身隊の区別が明確になされていない状況であったと解されることを考慮しても、まとめ方として正確性を欠く〉と述べています。

 報告書を受けて朝日新聞社は同月、「慰安婦と挺身隊との混同」は誤りだったとして、紙面でおわびして訂正しました。

     ◇

 慰安婦問題をめぐっては、2014年12月に連続インタビュー、15年6月には座談会で慰安婦問題の現状について専門家の考えを聞きました。7月には戦前・戦中に日本軍で慰安所がつくられた経緯を軍や警察の公文書でたどり、11月には米国での慰安婦碑・像の建立をめぐる論争を伝えました。

 日韓合意の履行をめぐる各国での動きや、戦場における国内外の女性の人権の問題など、今後もさまざまな側面から慰安婦問題を伝えていきます。

 

 ■引用した新聞記事・書籍リスト

※〈5〉〈7〉と〈11〉~〈14〉は日本語、それ以外は原文は韓国語

〈1〉1946年5月12日付ソウル新聞「倭(わ)軍慰安に連行されていた女性 中国にいる同胞有志らが収容保護」

〈2〉62年10月16日付京郷新聞投書欄「日本は韓国に贖罪(しょくざい)せよ もはや憤りが爆発しそうだ」

〈3〉64年3月23日付東亜日報「私が見た平和線 最初の日本人記者ルポ」

〈4〉文定昌「軍国日本朝鮮強占三六年史・下」(67年)

〈5〉金一勉「天皇の軍隊と朝鮮人慰安婦」(76年)

〈6〉林鍾国「挺身隊」(81年)

〈7〉千田夏光「従軍慰安婦」(73年、韓国語版は74年)

〈8〉70年8月14日付ソウル新聞「未決25年〈6〉挺身隊」

〈9〉63年8月14日付京郷新聞・宋建鎬「光復前夜 日帝の発悪」

〈10〉84年3月17日~31日付中央日報「私は女子挺身隊 盧寿福おばあさん 怨恨(えんこん)の一代記」(11回連載)

〈11〉外務省「終戦史録」(52年)

〈12〉高崎宗司「『半島女子勤労挺身隊』について」女性のためのアジア平和国民基金編「『慰安婦』問題調査報告・1999」(99年)

〈13〉44年7月12日閣議決定「朝鮮総督府部内臨時職員設置制中改正ノ件」女性のためのアジア平和国民基金編「政府調査『従軍慰安婦』関係資料集成」(98年)

〈14〉藤永壮「戦時期朝鮮における『慰安婦』動員の『流言』『造言』をめぐって」松田利彦ほか編「地域社会から見る帝国日本と植民地 朝鮮・台湾・満洲」(2013年)

〈15〉鄭鎮星「日本軍の性奴隷制 日本軍慰安婦問題の実像とその解決のための運動」(04年、日本語版は08年)

〈16〉韓国政府挺身隊問題実務対策班「日帝下軍隊慰安婦実態調査中間報告書」(92年)

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