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 新横綱誕生にわいた大相撲初場所の終了後も、街のにぎわいに陰りはない。

 東京・両国。葛飾北斎生誕の地そばに昨秋開館した、すみだ北斎美術館は、江戸東京博物館に続く人気スポットになっている。JR両国駅に連結した新しい飲食街も盛況。2月に行われる東京マラソンでは、両国から隅田川を渡る新ルートが目玉だ。

 「いま川の向こうのほうが、にぎやからしいですね」

 両国橋の西詰め近くで、小林信彦さん(84)はそう言って対岸を眺めた。喜劇人列伝や映画コラム、実験的な娯楽小説などで知られる作家は、ここからほど近い、中央区東日本橋の生まれである。

 天明年間創業の和菓子屋を営む生家のあった町は、古くは米沢町と呼ばれ、1934年、日本橋両国と名を変えた。つまり両国という町は、隅田川の東西に二つあった。

 武蔵、下総の二国をつなぐから両国橋。建築されたのは1659(万治2)年にさかのぼる(61年、寛文元年説もある)。その2年前、10万人もの被害が出た明暦の大火がきっかけだったといい、東西の橋詰めには、火除(ひよ)け地として広小路が設けられた。そこに茶屋や見世物(みせもの)小屋が立ち並び、花火や納涼を楽しむ江戸随一の名所となった。

 架橋によって二つの地域が結ばれ、ともに発展してきたのが両国の歴史ともいえる。

 それが一方だけの名が消える。1971年のことだ。

 小林さんは5年後に短編「兩國橋」を発表、収録した単行本の経歴に〈日本橋両国生まれ〉と記した。その後も繰り返し、「消えた町」をモチーフにしてきた。

 こだわる理由は、機械的な町名変更に踏み切った役所仕事への憤りだという。一方、はっきりとは言わないが、こちらお江戸の中心・日本橋の側の両国との自負ものぞく。「都の中の都なり」。母校の小学校の校歌には、そんな一節があったそうだ。

     *

 両国橋の長さは160メートルあまり。だが、小林少年にとって、対岸は「異界」だった。

 授業で見学した相撲部屋、菊人形を見た国技館。無縁寺の回向院(えこういん)や、関東大震災の被害者の霊をまつる施設。

 「橋を渡るのが怖かったですね。猥雑(わいざつ)で暗い。どことなく死のイメージがあった」

 東詰めの両国で育った明治生まれの芥川龍之介は、この地域は文明開化に取り残され、「落伍者(らくごしゃ)」が多かったと振り返っている。さらに1923(大正12)年の災厄は、より大きな被害を隅田川の東側にもたらした。

 昭和1桁生まれの小林さんが見た川の向こうは、歴史にほんろうされ、天災により傷だらけになった場所だった。

 ■「粋」 下町が生んだ美学

 京の着倒れ、大阪の食い倒れ。伝にならえば、江戸はさしずめ「見倒れ」だとの説がある。祭り、縁日、芝居、見世物に花火。その随一の盛り場が、両国橋だった。

 東詰めの回向院もその一つ。18世紀後半から境内で行われた相撲で、広小路と一体のにぎわいをみせた寺だ。

 もともとは明暦の大火の供養のために開山。「諸宗山無縁寺」を称し、貧しく身よりがない人々の死を悼んできた。関東大震災の死者の分骨も納める。

 副住職の本多将敬さん(41)は「最近は開山の精神が忘れられていて」と嘆く。一方で、庶民に寄り添い「聖と俗」を共存させてきた歴史を誇らしい、とも語る。

 「寺が描かれた古い浮世絵を見ると、人々の表情がいきいきと楽しそうなんです。安政の大地震の翌年には、もう相撲をやっている。悲しみの中でも人々は娯楽を求め、生き抜いてきたんですね」

 自身も、ごった煮のようなこの町が好きで、袈裟(けさ)姿でランチへ。とがった試みも多い近隣の劇場関係者とも、つきあう。「面白いですよ」

 一帯は「忠臣蔵」など武家がらみの史跡も多いが、何よりも江戸町人文化の本拠地だった。たとえば「江戸落語中興の祖」とも呼ばれる戯作(げさく)者、烏亭焉馬(うていえんば)(1743~1822)の旧居跡がある。狂歌仲間を誘って「咄(はなし)の会」を主宰、大田南畝(なんぽ)ら武士も巻き込んだ。歌舞伎の五代目市川団十郎のパトロン的な活動をし、葛飾北斎にも仕事をまかせた。つきあいのあった、やはり江戸を代表する戯作者の山東京伝(さんとうきょうでん)(1761~1816)も墓は回向院にある。

 佐藤至子(ゆきこ)・日大教授(日本近世文学)によると、彼らの遊びには家業という基盤が大きかった。だが、しゃれと風刺が持ち味の戯作者も、実はあからさまな幕府批判の表現は少ない。封建の世の現実感覚とともに、江戸っ子気質も無関係でないと佐藤さん。

 「たとえば京伝は、事情通をひけらかす『あな知り』を戒めました。事情を承知しながらも表にはせず、ことをうまくさばく『わけ知り』の振る舞いを尊んだ」

 話を聞くうち、何かにつけ小林さんに重なるように思えてきた。落語好きで、大衆芸能を軸に放送作家、作家とマルチかつフリーに活躍――。

 「まあ、それしかできなかったから……。生活は汲々(きゅうきゅう)としてましたよ」と小林さん。

 近年は時折、政治批判もするが、あからさまな談義はやぼとみる点も、町人文化人の系譜か。ただ、3年後の東京五輪に話が及ぶと、やや語気を強めた。「東京はいまだに、変化させられている」

 先の東京五輪での東京の町の変貌(へんぼう)を、のちに「町殺し」と総括した。小林さんのオリジナルの表現ではないというが、痛いところを突かれたような思いにさせる言葉だ。

 小林さんにも、故郷の町が山の手にくらべ惨めに思え、「すっかり忘れていた」時代がある。父の死後、和菓子店をたたみ、脱出を果たしたのは、20歳のとき。草創期のテレビ界にかかわり、青山、六本木で暮らした。

 生まれ育った町が気になり始めたのは、作家業に専念する70年代初めからだ。

 進歩と無縁だった下町も、いつしかもてはやされる存在になった。小林さんは小説「イーストサイド・ワルツ」(1994年)で警告している。下町が人情味といった世間の幻想に迎合するようになり、「すれてきた」と。

 では、五輪による今ひとたびの「町殺し」の機運は、なお高まる下町人気と、どう折り合いをつけるのだろう。

 「わからないですね。ただ下町が生んだ美学、生活様式は人々が生きている限り、存在する。口に出しては言わないけど、粋。説明するの、うーん難しいなあ……」

     *

 小林さんにとって、「向こう両国」は、今もおそれを感じる場所だという。だが、車中から今の両国を眺める表情はいきいきしてみえた。カラオケ店まで細かく観察する。

 車を降りて、生家のあった旧・日本橋両国を歩く。

 かつて都電が走っていた道から、少し入る。数年ぶりの来訪で、ビルやマンションがまた増えた、と閉口する。すぐ北にあった料亭街、柳橋は、すでに99年に最後の一軒が店を閉めている。

 隅田川沿いで偶然見かけた、マンションの壁の文言に小林さんは苦笑した。As Time Goes by(時の過ぎゆくままに)――。

 (文・藤生京子 写真・遠藤啓生)

 ■今回の道

 両国橋は、6キロほど上流の千住大橋に続き、隅田川で2番目に架けられた橋。架橋により低湿地だった江東地区の都市開発が進んだ。葛飾北斎、歌川広重ら多くの絵師が、橋の上の雑踏と、水辺の風景や納涼花火など四季の風物詩を描いた。

 台風や火事で何度も流出したが、1904(明治37)年、鉄橋に。現在の橋は、関東大震災後の復興事業の一環で32年に架けられた。当時は言問橋とともに橋脚間距離が国内最長といわれた。歩道の柵に花火の絵、バルコニーは相撲の土俵を意識したデザイン。橋詰めの親柱に載った球体=写真=が何の意匠か、関係者に聞いたが、はっきりしなかった。

 小林信彦さん=顔写真=は1932年生まれ。早稲田大学文学部英文科卒。翻訳推理小説誌「ヒッチコックマガジン」編集長、放送作家、タレントなどを経て、作家。小説「うらなり」に至る一連の仕事で菊池寛賞。

 ■ぶらり

 両国橋西詰め周辺では、神田川最下流の柳橋まで足を延ばしたい。料亭街は過去の話になってしまったが、屋形船や釣り船が停泊する風景は美しい。さらに南には、江戸三大不動の薬研堀不動院も。

 みどころは、東詰めの方が多い。赤穂浪士らが討ち入りを果たした、吉良上野介の邸宅跡。広大だった屋敷のごく一部ながら、付近には、討ち入り後に浪士らが泉岳寺に戻る前に休憩した広小路もある。

 吉良邸跡の東、両国小学校の敷地の一角には芥川龍之介の文学碑が立つ。「杜子春」の一節にほろりとした後は、隣の両国公園にある勝海舟生誕の地へ足を向けよう。明治初めの寄宿制英語塾「共立学舎」跡もあり、海外を志した先人の心意気にふれられる。

 相撲部屋が点在するエリアで、相撲写真資料館もある。時代劇好きなら「鬼平犯科帳」ゆかりのスポットを巡るコースが「すみだまち歩き博覧会」など無料パンフレットで紹介されている。JR両国駅直結の「両国-江戸-NOREN」内にある両国観光案内所でもらえる。

 大小の劇場、ホールも目を引く町だ。現代劇から能まで幅広いシアターX(カイ)はじめ、多彩な音楽公演を試みる両国門天ホール、気軽に寄席体験ができるお江戸両国亭も楽しい。

 両国駅の北にある横網町公園は「被服廠跡(ひふくしょうあと)」とも呼ばれるメモリアルパーク。関東大震災、東京大空襲の犠牲者の遺骨を納める東京都慰霊堂と同復興記念館を訪ねてみたい。

 ■読む

 生まれ育った東京の町をめぐる小林信彦さんの著書は数多いが、新刊で入手しやすいのは、自伝小説『流される』(文春文庫)とエッセー『私の東京地図』(筑摩書房)。本文で触れた『家の旗』(「兩國橋」収録、文芸春秋)と『イーストサイド・ワルツ』(新潮文庫)は、古書店か図書館で。

 佐藤至子『山東京伝』(ミネルヴァ書房)は、初めて原稿料をとって書いたともいわれる戯作者の評伝。烏亭焉馬については、延広真治『江戸落語』(講談社学術文庫)が詳しいが、在庫切れ。

 ■読者へのおみやげ

 両国-江戸-NORENで買った「桐のまな板(プチ)」を5人に。住所・氏名・年齢・「11日」を明記し、〒119・0378 晴海郵便局留め、朝日新聞be「みち」係へ。16日の消印まで有効です。

 ◆次回の道は、朝鮮半島、大陸へ向かう玄界灘の「海北道中」です。神の島、そして海の正倉院として注目を浴びる沖ノ島も、その海路上にあります。

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