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 1947年の春、新憲法施行を5月に控え、日本は再出発を祝う熱気に満ちていました。しかし、外では米ソ冷戦が始まっています。ドイツは分割され、中国では国民党と共産党の内戦が激化。朝鮮半島は南北に分かれ、やがて来る朝鮮戦争の破局へと踏み出していました。東アジアも欧州も新たな混沌(こんとん)のふちにあったのです。その後70年、多くの苦難が待ち構えていました。

 ■日本軍従軍者も、公式に追悼 台湾

 台湾は日本が初めて手にし、50年統治した植民地だった。なのに、敗戦で手放した後、この地で起きたことに、日本はどれだけ関心を向けてきただろう。

 台北市内の「二二八和平公園」に2月末、車いすのお年寄りや、花を手にした女性ら市民が集まった。

 この日は、戦後の台湾を統治した国民党政権が民衆を弾圧し、数万人が犠牲となった1947年の「二・二八事件」の記念日。追悼式典では、被害者の遺族らに、蔡英文(ツァイインウェン)総統から「名誉回復証」が手渡された。

 台湾社会には、国民党と共に中国大陸から渡ってきた「外省人」と呼ばれる人々と、以前から暮らす「本省人」と呼ばれる人々との間で確執が残る。昨年の総統選で国民党から2度目の政権奪取を果たした民進党は、本省人を主な支持基盤とする政党だ。蔡は国民党独裁時代に顧みられなかった歴史に光を当て、和解をめざす試みを続けている。

 昨年11月、南部・高雄市で開かれた式典に、総統として初めて参列したのも、その一つだった。日本の植民地時代、日本兵として第2次大戦に臨み、犠牲となった台湾人兵士らを追悼する集まりで、元々は生還した老兵や遺族らが細々と続けてきた会だ。

 「いらっしゃるのを、70年以上待っていました」

 あいさつに立った廖淑霞(89)は、付き添いの女性に支えられながら、総統に呼びかけた。

 大戦中、日本は中国大陸で国民党政権と戦った。台湾人日本兵は国民党側からみれば「敵」となる。戦後は台湾の公式の歴史から排除され、追悼や補償の対象外になってきた。

 台湾に生まれ、女学校で日本語教育を受けた廖は当時、看護師だった。44年、上海にあった日本陸軍の病院に配属された。前線から次々と送られてくる傷病兵たち。空襲のときは小柄な廖が結核患者を背負って防空壕(ごう)へ走った。同僚だった朝鮮半島出身の少女が爆撃で亡くなった。

 廖が経験を語り始めたのは、台湾で民主化が進む90年代になってからだ。「日本軍に協力したなんて、迫害が怖くて言えなかった」

 式典に参列した元軍人軍属は12人。最高齢の楊馥成(95)は陸軍補給部隊で勤務した。戦後、国民党政権から逃れ、日本に密航しようとして投獄された。

 林余立(90)は海兵団に入った年に終戦を迎えた。だが、次は国民党軍に動員され、中国大陸に送られる。日本が「戦後」を迎える一方、大陸では国民党と共産党の内戦が再開していた。共産党軍の捕虜となり、更に朝鮮戦争に送り込まれた台湾人もいる。

 式典会場となった高雄市の海辺の公園には、老兵らが運営する記念館がある。壁には同じ顔をした異なる軍服姿の3人の若者が描かれ、海を見つめる。時代に振り回され、ときに日本軍で、国民党軍で、共産党軍で戦った全ての台湾人を悼む思いをこめた。

 式典で蔡は語った。

 「高雄は台湾の兵士たちが出発した港の一つです。彼らを、私たちの歴史に、台湾人の記憶に迎え入れましょう」

 ただし、台湾側の視点から歴史を捉え直す試みは政治性も帯びており、日本の侵略に抵抗した大陸側の歴史を重視する国民党に加えて、中国からの反発もある。

 当時、日本軍に動員された台湾人の軍人軍属は20万人を超え、3万人以上が犠牲になった。日本政府は、日本国籍を喪失していることを理由に、台湾人日本兵に恩給を払わず、日本人並みの補償もしていない。

 ■文化や福祉、国境超える挑戦 韓国

 1947年5月2日。日本国憲法が施行される前日に、朝鮮人と台湾人は日本人と切り離された。

 天皇による勅令「外国人登録令」で「当分の間、外国人とみなす」と定められた。閣議資料には「五月二日以前に公布して頂きたい」との法制局のメモが貼られた。だが、この「駆け込み勅令」で分離された人々の中に、日本との接点を持ち続けた人もいた。

 後に宗教政治学者・評論家となる池明観(チミョングァン)(92)はそのころ、すでに南北分断状態にあった朝鮮半島の北側から南へ密航していた。中国国境近くで生まれ、日本式教育を受けた。終戦後に南の方が豊かではないかと思って脱出したが、貧しさは変わらなかった。

 ソウル大学を出て雑誌を主宰。65年、日韓国交正常化の調印後に初めて日本を訪れる。新幹線から見た美しい川や整った田園に「自分は統治者として以外の日本を何も知らない」と思い、70年代から東京の大学に籍を置いた。雑誌「世界」に「T・K生」の筆名で韓国軍事政権の実情を告発し始めた73年、民主活動家の金大中(キムデジュン)が東京で拉致された。「言論をてこに日米を動かし民主化を進めたい」という一心で寄稿を続けた。

 四半世紀後、金大中が大統領となる。池は懐刀として、日本の映画や歌謡曲、放送など韓国で禁止されていた政策の転換を担った。「今度は文化で侵略されるのか」という声を押し切り全面開放へ道筋をつける。「世界が認めた文化を韓国だけが拒むのは理屈に合わない」と。まず98年秋、国際映画祭の受賞作や日韓共同制作映画から。輸入解禁第1号は日韓合作の「愛の黙示録」だった。

 「黙示録」は、韓国全羅南道の木浦(モッポ)で戦前から孤児院を営んだ田内千鶴子の生涯を描く。朝鮮総督府に赴任した父と7歳から朝鮮で暮らし、孤児を連れた朝鮮人男性と結婚した。戦後も帰国せず68年、56歳の誕生日に死去した時、育てた孤児は3千人を数えていた。

 映画の原作者でもある長男の尹基(ユンギ)(74)によると、完成した95年当時、韓国当局に上映を掛け合ったが「日本文化はだめ」の一点張り。「ほぼ全編韓国語で監督も韓国人なのに何が問題なのか」と聞いても無駄だった。その後、政策の急転回で許可が下りた。

 尹は今も木浦で児童養護施設を続けながら、日本でも「故郷の家」という老人福祉施設を次々とつくっている。昨年11月には東京で5カ所目が開所した。国籍を問わず受け入れるが、在日韓国人が多い。食事にはキムチと梅干しが欠かさず出る。千鶴子から最後に聞いた言葉が「梅干しが食べたい」だったからだ。

 母も故郷の味が懐かしかったのだろう。後に在日の人の中にも故郷に帰れない人が多いことを知り、孤独に過ごさずに済む場を提供しようと決めた。「黙示録」で千鶴子と尹を知る人も増え、建設費用の寄付に弾みもついた。

 父母の結婚時に父が日本国籍になり、尹も日本籍。朝鮮で生まれ育ったため、母語は韓国語だ。「福祉という、終わりもなく国籍も関係ない文化に挑戦し続けたい」と尹は言う。

 韓国の外から民主化を促し、文化交流を進めた池は今、日韓、南北朝鮮だけでなくアジア中で関係が悪化していることを悲しく思う。半面、「これからは政府の力に頼らない市民連帯の時代になる」とも言う。「歴史は必ず進化する。これは決して空虚な希望ではない」

 ■かつてはタブー、「被害」語る ドイツ

 戦後のドイツの歩みは、戦勝国英米仏ソ連による国土の分断で始まる。戦後処理の枠組みであるポツダム協定でドイツとポーランドとの国境は西に250キロ移動し、国土は大幅に縮小した。

 1947年、旧東部領からのドイツ系住民の移動が続いていた。

 「ベルリンの難民収容所にいました。服はボロボロ、シラミだらけ。この生活はいつ終わるのかと」

 旧ドイツ領ポーゼン(現ポーランド領ポズナニ)に生まれ育ったドイツ人のローゼマリー・ツィトリッヒ(80)はそう振り返る。8歳で敗戦を迎え、家畜を運ぶトラックでベルリンに。その後も各地を転々とした。強制移住者たちの入植地北西部エスペルカンプにようやくたどり着いた時には23歳になっていた。

 大戦末期のソ連軍の侵攻や、敗戦による国境線の引き直しで、ツィトリッヒのような強制移住民は約1400万人に上った。暴行や略奪そして強姦(ごうかん)と道中は凄惨(せいさん)を極めた。200万人が命を落としたとも言われ、戦後ドイツ最大の悲劇と語られる。

 「加害国」だったドイツは、20世紀が終わる2000年ごろから、被害者としての側面を語り始める。大きな波紋を生んだのが、旧東部領などからの移住民らの団体「被追放民同盟」のエリカ・シュタインバッハ連邦議会議員(当時)による「追放に反対するセンター」の建設運動だった。ドイツ人の被害を伝える写真などを展示し「被害の歴史も記憶するべきだ」とする運動は両国間のタブーを破ったと語られた。ポーランドは「ドイツに被害を語る資格はない」と反発した。

 ただ今やこの問題は両国で大きな関心を呼ばない。

 「ドイツが受けた被害の記憶が最も重要です。でも同時に欧州で起きた数ある悲劇の一つにすぎない」

 ドイツ連邦政府が設立した財団「逃亡・追放・和解」理事長のグンドラ・バベンダムはそう話す。同財団は来年、強制移住をテーマにした資料館をベルリン中心部につくる。財団設立から約10年を要した。ポーランドの歴史家も含めた議論の結論は、「欧州という文脈」の強調だ。それにより、国と国が立場の違いを超え、地域の一員として向き合える。ドイツ人の強制移住を、第1次大戦のオスマントルコでのアルメニア人の追放、同大戦後のギリシャ・トルコ間の住民の交換などと並べて理解しようとした。

 ポーランド側は15年に愛国主義的な色彩が強い保守政党が政権に返り咲き、ドイツに強硬な姿勢を示すようになった。それでも、矛先が「歴史」に向くことは少ない。

 両国の歴史家たちは昨年夏、共同で「欧州史」の教科書も刊行した。今は古代・中世史だが、現代まで定期的に発行する予定で「強制移住」も題材になる。

 「あの悲劇の解釈について、両国の合意を得るのは今なお難しい」と語るのは、ドイツでの歴史教科書研究の拠点「ゲオルク・エッカート研究所」所長のエックハルト・フックス。でも、と続けた。「戦後直後と今の2国の関係は全く違うという合意はすでにできている」。乗り越えがたい加害・被害の関係に、欧州の一員という新たな文脈が加わっている。

 ■植民地支配の直視、ようやく フランス

 第2次大戦末期に連合国に解放されたことで「戦勝国」に仲間入りしたフランスは戦後、特異な道を歩んだ。戦争で傷んだ経済と国家威信の回復のため、植民地支配の再強化に乗り出したのだ。だが、世界で燃え上がった民族自決の機運とぶつかり、そのことがフランスに深い傷を残した。

 北アフリカの仏領アルジェリアでは、反乱と鎮圧が繰り返され、テロの応酬が続いた。暗い歴史を象徴するのが、支配の末端を担わされた「アルキ」と呼ばれるアルジェリア人補充兵とその家族がたどった道である。

 彼らの苦難を記す場所が南仏リブサルトにある。早春のピレネー山脈から肌を刺す風が吹き抜ける。朽ちたバラックが今も点在する。半地下の建物の玄関には「アンデジラブル(好ましからざる者たち)」の文字。この地に閉じ込められていたアルキの歴史を残す記念館だ。

 パリ在住のファティマ・ベスナシ(62)は少女時代をこの収容所で過ごした。「窓にガラスがない部屋で四つの寝台に8人が身を寄せ合って寝ました」

 アルジェリアは、独立戦争の末、1962年に独立した。80万人以上いた欧州系入植者はフランスへの引き揚げが認められた。

 だが、仏統治時代に農村部の治安維持を担わされ、独立戦争では仏軍についたイスラム教徒の補充兵は仏国籍を奪われ、武器も回収された。彼らアルキは、同胞であるアルジェリア人の怒りの標的となり、数万人が殺された。ベスナシの祖父もその一人だ。「フランスへの忠誠心で補充兵になった者はわずか。祖父は部族長として家族や村人を守るために参加したのです」

 10万人以上のアルキが仏本土に逃げ渡った。住居などがあっせんされた欧州系とは違い、収容所に隔離された。ベスナシは15年間、収容所を転々とした。

 90年代以降、フランスでは「過去」の問い直しが始まる。ナチス傀儡(かいらい)政権だったとして責任を回避してきたユダヤ人迫害について仏政府は95年、国家責任を認めた。だが、植民地支配の直視は遅れた。アルキについて「彼らを(いったん)見捨て、人道的ではない手法で受け入れた」という表現で、オランド大統領が初めてフランスの国家責任を認めたのは昨年9月だ。

 歴史家のブノワ・ファレーズは「文明を持ち込んだと美化する見方に加え、フランスが人種差別や拷問など非人道行為に手を染めた事実から目をそむけたい感情もあった」と語る。

 テロが相次ぎ、反移民感情が強まるフランスで、「過去」は敏感な問題であり続ける。

 2015年に開館したリブサルトの記念館は、アルキ以前にこの地で収容されていたスペイン難民、ユダヤ人、ロマ人ら時代ごとの「好ましからざる者たち」も、あわせて紹介している。

 「それぞれの記憶を主張しあうのではなく、財産として共有する記念館でありたい」。支配人のフランソワーズ・ルーはそう話す。

 ■記憶と経験、人類共通の遺産に 編集委員・三浦俊章

 「過去は死んでいない。過ぎ去ってさえいない」。10年以上前、東京裁判を研究する米歴史家リチャード・マイニアに教わった言葉です。それは、米国のノーベル賞作家ウィリアム・フォークナーの芝居のせりふでした。人種差別という重い歴史を背負った米南部出身のフォークナーらしい、人間存在の深みに触れる言葉ではないでしょうか。

 現在、世界中で、歴史問題が噴き出しています。過去の記憶が、狭い愛国心をあおるために使われたり、異なる民族や宗教への敵意をかき立てるために援用されたりもします。こういう騒ぎはもういいかげんにしてほしい、私たちは、静かに自分たちの来し方を振り返りたいだけなのだと、ぼやきたくなります。

 しかし、歴史学や歴史教育そのものが、近代国家の形成と密接につながりながら発展してきたことを考えると、国家と歴史との関係は一筋縄ではいきません。グローバリゼーションが叫ばれる中、かえって、心のよりどころとして、国家やナショナリズムが強化されている面もあります。

 2015年の企画「戦後70年」に引き続き、16年春からは企画「戦後の原点」を掲載してきました。容易に過ぎ去らない過去に辛抱強く向き合うためです。

 最終回の今回、歴史の傷に苦しむ人々の中に、自らの経験を国家の枠に閉じ込めることなく、人類共通の悲劇や問題として位置づける人たちがいることを紹介しました。今の世界を覆うナショナリズムやポピュリズムの暗雲の下で、小さな試みかもしれません。しかし、人類が不毛な争いをやめ、共存し続けるため、絶やしてはいけない営みがある。これからの歴史報道でも、そんな視点を生かし続けるつもりです。

 ◆本文は敬称略。三浦のほかに市川速水、沢村亙、高久潤、西本秀、藤原秀人が担当しました。「戦後の原点」は今回で終わります。

 

 <訂正して、おわびします>

 ▼19日付特集面「戦後の原点」の「日本軍従軍者も公式に追悼」の記事で、「寥淑霞」さんの姓は「廖」の誤りでした。写真説明にも同様の誤りがありました。文字変換で間違え、点検でも見落としました。

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