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 上下動のないフォームと高性能エンジンを連想させる爆発的な足の運び――。

 陸上男子100メートルの桐生祥秀(よしひで)選手が9秒98の日本新記録を出した。日本のスプリンターの前に立ちはだかってきた「10秒の壁」がついに破られた。

 人類が初めて電気計時で9秒台を記録したのは1968年。米国のジム・ハインズがメキシコ五輪で9秒95をマークした。10秒を切ることは、日本の短距離界にとって、半世紀にわたる目標だった。

 98年のバンコク・アジア大会で10秒00まで肉薄した伊東浩司をはじめ、多くの一流選手がこの壁に挑んだが、はね返されてきた。レース後、桐生本人はもちろん、多くの人が喜びを爆発させたのも当然だろう。

 見た目のシンプルさとは裏腹に、競技は繊細かつ複雑だ。

 スタート直後にトップスピードとなって、長く持続させる。それが極意だ。だが難しい。

 歩幅を狭くして足の回転数をあげれば、最高速に早く達するが、伸びは悪く失速も早い。逆に歩幅を広げれば、ギアがトップに入るのに時間がかかり、序盤の遅れを取り戻す前に、レースが終わってしまう。わずか100メートル、10秒の間に、マラソンにも負けないドラマがある。

 新記録の背景には、練習によってその精緻(せいち)なバランスを極めた桐生の努力がうかがえる。

 別の観点からも今回のタイムは高く評価できる。これまでに9秒台で走ったのは120人あまり。そのほとんどはアフリカにルーツを持つ選手だ。

 日本の選手とは、身長や体重の体格差に加え、骨格や筋肉の付き方の違いがあると指摘する研究もある。日本陸連は90年代から科学的な研究に取り組み、欧米の走法や練習方法も参考にしながら、選手に合わせた育成方法を進めてきた。その成果が実り、日本歴代10傑では桐生に続く全員が10秒0台の記録を持つ。10傑の8人を現役が占め、うち6人は去年から今年にかけて自己記録を更新している。

 選手層の厚みは、国際大会でメダル獲得が続くリレー種目での活躍からも明らかだ。

 今季で引退したジャマイカのウサイン・ボルトの世界記録9秒58にはまだ差はあるが、世界と戦う出発点に立ったといっていいだろう。五輪や世界選手権での決勝進出、ファイナリストの誕生も決して夢ではない。

 正しい方法であきらめることなく挑戦を続ければ、新しい地平が開ける。日本のアスリートが秘める可能性を、改めて教えてくれた新記録でもある。

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