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 ■試合中に見上げた富士山、気持ちはずっと負けていた

 「富士の樹海」には、気をつけて入らないと危険だという話をよく耳にする。方位磁石が狂い迷ってしまうこともあるらしい。僕は子供の頃から富士山が好きで憧れていたし、係でもないのに中庭の花に毎日お水をあげるほど植物も好きだったので、どうも怖いというイメージを持つことができなかった。だから、自分の眼で、その樹海を確かめてみようと思った。

 東京から山梨に向かう車の窓から見えた富士山は、しばらく見とれてしまうほど立派だった。富士山が見えなくなったので、樹海に到着するまでのあいだ、少しだけ眠ろうと眼を閉じると、富士山と自分をめぐる想い出が、次々と頭に浮かんでは消えた。

 ■「大山」も「山」

 どうでもいいような話なのだが、小学生の頃に「富士」という名字の生徒がいた。それが名字について考えるきっかけになった。「大林」という名字は、大きな林なのだから考えようによっては「森」なんじゃないか。「小森」という名字は、小さな森なのだから「林」なんじゃないか。「大森」という名字は、大きな森なのだから、もはや「山」なんじゃないか。「小林」という名字は、小さな林なのだから「木々」なんじゃないか。「木々」なんていう名字は聞いたことがないけれど、「大山」という名字はよく聞く。なにに対しての大きい山なのだろう。「はじめまして、大山です」と自己紹介しても、富士からすると「そんな大きいかな?」となってしまうかもしれない。

 修学旅行で新幹線の車窓から富士山を初めて見た。大阪に住んでいた僕達のほとんどが初めてだったので、修学旅行生で埋め尽くされた車両がどよめいた。それ以来、富士山のファンになり、葛飾北斎の描いた富士山がプリントされたノートを使っていたこともあった。

 高校時代に静岡でサッカーの試合をしたことがある。その日はよく晴れていてグラウンドから大きな富士山が見えた。ボールがコートの外に出て試合が中断するたびに、僕は富士山を見上げた。試合は拮抗(きっこう)していたが、富士山の大きさに圧倒されて、ずっと負けているような気持ちだった。

 上京するまで東京からでも富士山が見えることを知らなかった。世田谷の住宅街を散歩していると、夕暮れ時に見晴らしのいい橋に辿(たど)り着いた。遠くに山が見えて、とても美しかったので思わず写真におさめた。あの山はなんという山だろうと気になり、あたりを見回すと橋の欄干に「富士見橋」と書いてあった。とてもわかりやすかった。

 ■させられる僕達

 変な夢も見たことがある。遠くに富士山が見える広場で友達と二人でサッカーボールを蹴っていた。すると、友達が「おれ、明日な、警察につかまんねん」と言い出した。「えっ、なんで?」と聞くと、「たいしたことちゃうねん」と友達は答えた。その時の富士山はとても哀しそうだった。

 知り合いに、「俺のマンション、窓から富士山見えるんだよね」と言われた時、自分はこんなにも富士山が好きなのに……、と嫉妬すら覚えた。実際にその人のマンションにお邪魔して窓からの景色を見ると、たしかに富士山は見えたのだが足の爪くらいの大きさでしかなかったので安心した。僕の心は富士山に比べるまでもなくかなり小さい。

 そんなとりとめの無いことばかりを考えていると、車が駐車場に停車した。富士の樹海はハイキングコースになっていて、整備された道を安全に歩くことができる。ここなら大丈夫だろうと安心して樹海に入ったが、気候のせいだろうか、空気が重い。過去に森や山を歩いた時に感じた爽快さが少なくとも、その日は無かった。木の上を走るリスを見たし、土を這(は)う虫も見た。とても静かで音が遠いのに、植物の生命力が溢(あふ)れてむせてしまいそうだった。ここは植物の力が自分よりも圧倒的に強いのだ。あの富士山と繋(つな)がっているのだから当然これくらいの力はあるのか。そこで、ふと思った。僕達は植物に水をあげているのだろうか。それとも、植物にあげさせられているのだろうか。あらゆる表情を持つ、この山に飽きることはない。

 (芥川賞作家・お笑い芸人)

 ■メモ

 富士の樹海の始まりは、9世紀の富士山の大噴火、貞観噴火にさかのぼる。平安時代の史書「日本三代実録」によると、流れ出た溶岩が、かつて富士山の北麓(ほくろく)にあった「せの海」と呼ばれた大きな湖の中央部を埋めて西湖と精進湖に分け、北西麓一帯を覆った。

 溶岩は水をためないが、やがて苔(こけ)が生えて保水力が生まれ、植物が育った。樹海は、樹齢300年ほどの森とされる。「方位磁石が狂う」は、溶岩の持つ磁性が影響しているとも。

 コウモリ穴などの「穴」は、溶岩が冷めて収縮するときに、ガスが出て行ったあとにできた空洞。中は夏でも寒い。

 中央道河口湖インターから車で約30分。

 ◆次回の「又吉直樹のいつか見る風景」は11月4日に掲載。映画「火花」の舞台、吉祥寺を訪ねます。

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