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 2020年のオリンピック・パラリンピックの東京開催に向けて、競技場の建設や交通網の整備など、いろいろな分野で準備が進んでいます。世界各国から人々が集まり、夢と希望と感動を届けてくれるイベントが開かれるのは今から楽しみです。

開催に向けては、健康面でも取り組みがなされています。ただ、2015年5月15日の朝日新聞によりますと、「2020年東京五輪に向けて、東京都の検討会は禁煙・分煙の条例化を進めてきたが、条例化を先送りする最終提言をまとめた」そうです。

http://www.asahi.com/articles/ASH5X6GZ6H5XUTIL048.html

 この記事によりますと「2004年以降、定着していた『禁煙五輪』の流れを断ち切りかねない動き」だそうです。

すでに欧米をはじめとする先進国では、たばこの健康に及ぼす悪影響は広く国民に周知されています。そして喫煙対策として、公共施設・レストランを含む屋内喫煙の禁止、陳列販売の禁止やデザイン・ロゴの禁止、一箱1000円を超える高価格での販売など、あらゆる方法を用い、喫煙を減らす政策に国を挙げて取り組んでいます。

 日本では欧米に比べて対策が遅れていると言わざるを得ませんが、それどころか最近、「たばこは健康に無害である」とか、「たばこと肺がんは関係がない」とかいう話題がインターネットで語られています。「何をいまさら」とか「本当かな」とか思う人が多い半面、「もしかしたら新しい説かも」「そうかも知れない」と思う人も出てくるかも知れません。なぜなら、その話題には下記のような曲線を示すグラフがよく紹介されているからです。

写真・図版

 たしかにこのグラフを見ると、喫煙率が下がっている一方、肺がん死亡者数が上がってように見えます。ちなみにこのデータは統計資料をみても間違いはありません。少なくとも喫煙率の減少によって肺がん死亡者の減少が起こっているような感じにはちょっと見えません。「やっぱり肺がんには喫煙影響より強い『何か』があるのかな?」と思う人もいるでしょう。

 ところで、たばこはいつから「体に悪いもの」と認識されてきたのでしょうか? 江戸時代に貝原益軒が書いた「養生訓」の中で、たばこに害があることがすでに指摘されていたようです。ただ嗜好(しこう)品というものは厄介なもので、それ自体が「愉(たの)しみ」であり、体に悪いとしてもすぐには気づきにくいものです。そして当時は平均寿命が短く、飢餓や戦争、感染症やけがで死亡する時代だったこともあり、たばこの害が表面化することが少なかったのではないかと思われます。

 たばこ(喫煙)の害が重大な健康問題であり、研究テーマとして医学の世界で取り上げられたのは第2次世界大戦後のイギリスであります。当時イギリスでは肺がんの死亡率が上昇しており、この原因究明と対策が求められていました。ただ当時、たばこを原因とする説のほかに、大気汚染を原因とする説など様々なものがあり、当時としては難しい課題でした。

この問題に対して果敢な挑戦をしたのがRichard Dollという疫学者です。疫学とは「人間集団を対象とし、疾病発生の分布やその疾病を引き起こす要因について研究し、対策・政策に結びけることを目的とした」公衆衛生に属する学問です。

 たばこの消費量と肺がんによる死亡について検討したグラフが、米国でも発表されています(下)。黒い折れ線がたばこの消費量、青い線が男性の肺がんによる死亡率の推移です(ちなみに赤い線は女性の肺がん死亡率です)。

http://www.cancer.org/research/cancerfactsstatistics/cancerfactsfigures2013/cancer-statistics-2013-slide-presentation.pdf別ウインドウで開きます

 日本のグラフと、印象がちょっと違いますね。

これは、グラフの時間軸を長めにとって見ているからです。このグラフでは、たばこの消費量がどんどん増えていってピークを迎え減少していく後を追うように、肺がんの死亡率も上昇→減少していく様子がうかがえます。上昇→減少というカーブの形も、時期の違いこそあれ、同じパターンを示しています。

写真・図版

 実は、初めにお見せしたグラフは、上図の赤い部分を切り取ったのと同じ性質なのです。喫煙を始めてから肺がんになるまでには、長い時間がかかります。ですから、このような山のずれが起こっているわけです。日本においても、肺がん死亡者数が増えているのは、それ以前に起きていたたばこ消費量の増加を追うように起きていると考えるのが自然です。やはり、たばこは肺がんを増加させている、たばこは肺がんの原因であるというのは揺るがないでしょう。

 日本での喫煙率の減少は、いまではなく、将来の肺がん死亡者数の減少につながっていくはずです。赤い部分のみを切り取って議論することに問題があることは、すぐにご理解いただけると思います。

 人間集団を対象とし、疾病発生の分布やその疾病を引き起こす要因について研究する。こうした疫学においては、細部に目を配りつつも全体を見渡し判断しようとする視点が大切です。次回は、Dollたちがどうやってたばこが肺がんの原因であると結論づけたかについて、紹介してみたいと思います。

<アピタル:疫学でヘルシーチェック>

http://www.asahi.com/apital/healthguide/ekigaku/(アピタル・村上義孝)

アピタル・村上義孝

アピタル・村上義孝(むらかみ・よしたか) 東邦大学教授

東京大学大学院医学系研究科保健学専攻博士課程修了(保健学博士)。大分県立看護科学大学、国立環境研究所、滋賀医科大学を経て、2014年東邦大学医学部教授(社会医学講座医療統計学分野)。専門は疫学、保健統計学、大規模データベース研究(循環器疾患)や政府統計の高次利用の研究などに携わっている。