[PR]

 臨床の面白いところは、なんでもありの世界であることと、思い通りにいかないことだらけのところだろう。長く医療の現場にいても、「こんなことは初めてだ」と思うことがいくらでもある。思い通りにいかないことは、草野球で初球ストライクを見逃せないせっかちなぼくをとことん鍛えてくれた。

 「専門学校を出てから六年間引きこもっていました」と、かすれた声の青年が受診した。この言葉が出るまでに、長い沈黙があった。「どんなですか」と聞いても答えない。問診票も白紙だった。「ここへ来るか、死ぬかのどちらかだと思いました」と、思い詰めた話から始まった。緊張した患者さんに、ぼくはその緊張に感染されないようにゆっくりと話を続けた。

 次の受診はないかもしれないと思いながら、話を終わった。二週間後に姿を見せた。「ここに来ると思ったら、きのうは眠れませんでした」と緊張のなかでの言葉だった。四回目の受診時、「受け付けの人に、こんにちはとあいさつができました。何年ぶりか覚えていません」のうれしい一言があった。「次を待っているよ。またね」と、少しくだけた調子でぼくは話を終わった。

 一回ごとに言葉の調子、話の内容が変化している。さあ、これからどうなるか、ぼくがどれだけの役割ができるか。どこでしかるべき人に引き継ぐか、ともかくこれが臨床なのだ。

 在宅医療を続けていた九十歳の患者さんの足先が暗い紫色に変色してきて、痛みが強くなった。「こんな歳になって、先生に会えてよかったです」と言ってくれるのだが、あの手この手の痛みの対応がうまくいかない。

 高齢の夫と息子の介護には限界があった。「ここまで生きたのだから入院は嫌、自然な最期でいい」と、本人は繰り返し口にする。ぼくは本人の気持ちを大切にしたいと思っていたが、介護の限界が来た。「夜に痛いと言われるのは耐えられません」と息子が言う。

 訪問看護師とぼくと息子とが話し合った。介護者が患者さんの気持ちにとことん付いてゆく覚悟がないと、在宅死は難しい。ぼくの本意ではなかったが「入院しましょう。手配はぼくがします」と話を締めくくった。そして、本人をぼくが説得した。「ここまでいろいろ考えてやってきましたが、痛みがとれません。痛いのはぼくも辛くなります。一度入院して、元気を取り戻してまた家でやりませんか」と、率直に話した。

 引きこもりから抜けようとする青年に、ぼくは話を聞く役に徹しきる。九十歳のこれからを決めるときにも、患者さんやその家族を支えるのがぼくの役割なのだ。

 思い通りにいかない時にも「それが臨床なのだ」と、少し冷静な気持ちのぼくがいる。

 

<アピタル・診療所の窓辺から>

http://www.asahi.com/apital/column/shimanto/(アピタル・小笠原望)

アピタル・小笠原望

アピタル・小笠原望(おがさわら・のぞみ) 大野内科院長

1951年高知県土佐市生まれ。76年弘前大医学部卒、徳島大第一内科入局。77年高松赤十字病院内科。88年同病院神経内科部長。97年大野内科(旧中村市)。2000年同院長。「かかりつけ医としての在宅医療、神経難病、こころのケア」に、「四万十のゲリラ医者」として活動中。02年から朝日新聞高知版柳壇選者。