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アサヒ・インターネット・キャスター



「地図一途」 November  11, 2004
2人のさむらいの会見地・薩摩屋敷

野々村氏の顔写真野々村 邦夫
ノノムラ・クニオ

30年余の公務員生活の大半は測量と地図に関係。99年、国土地理院長を最後に退官。広島工業大学教授などを経て現在財団法人日本地図センター理事長。仕事柄、旅する機会が多く、駅弁と地酒に造詣が深い、ハズ。


絵・宇田川のり子
バックナンバー 岩城元の「ハルピン発なんのこっちゃ」


11月11日は、何の日? 1が4個並ぶこの日は、こじつけ的○○の日を作りやすい。例えば、靴下を2足並べた形から「くつしたの日」、足跡の形から「下駄の日」、林立している形から「もやしの日」「煙突の日」「きりたんぽの日」、漢字の十と一をプラスマイナスに見立てて「電池の日」、漢字の旁(つくり)が土2つだから「鮭の日」などなど。

それじゃあ何か独自のものを考えてみようかと思って思いついたのが、漢字の十と一で士(さむらい)、それが2つあるので「2人のさむらいの日」。といったところであまりぱっとはしないが、武士が2人ペアになると、何かドラマが生まれることはある。熊谷直実と平敦盛、上杉謙信と武田信玄、佐々木小次郎と宮本武蔵など、歴史ドラマの主人公となった2人組はいろいろとあるが、かなり新しいところでは、勝海舟と西郷隆盛という組み合わせもある。

官軍の江戸城総攻撃が迫る中、この2人の会談の結果、これが回避されたといわれている。既にお膳立てができていて、この会談はセレモニーであるという見方もあるようだが、いずれにせよ、歴史的に記念すべき会談が行われたことは事実だろう。その場所、東京都港区芝、JR田町駅のそば、第1京浜と日比谷通りとの交差点付近の薩摩藩屋敷跡には、西郷吉之助の書による「江戸開城 西郷南洲 勝海舟 会見の地」と書いてある石造円形の記念碑がある。その下には「田町薩摩邸(勝・西郷の会見地)附近沿革案内」として、次のような説明が書いてある。

「この敷地は、明治維新前夜慶応4年3月14日幕府の陸軍総裁勝海舟が江戸100万市民を悲惨な火から守るため、西郷隆盛と会見し江戸無血開城を取り決めた『勝・西郷会談』の行われた薩摩藩屋敷跡の由緒ある場所です。
この蔵屋敷所在地の裏はすぐ海に面した砂浜で当時薩摩藩国元より船で送られて来る米などは、ここで陸揚げされました。
現在は、鉄道も敷かれ(明治5年)更に埋め立てられて海までは遠くなりましたが、この附近は最後まで残った江戸時代の海岸線です。
また、人情噺で有名な『芝浜の革財布』は、この地が舞台です」

現在その界隈は、ビルが立ち並んでいて、明治維新前後の面影を伝えるものは皆無といってよい。そこで、当時の地図で様子を見てみることにする。これに適した地図としては、時代は若干下るが、2万分の1迅速図というものがある。

2万分の1迅速図(正しくは「第一軍管地方二万分一迅速測図」)は明治初期、1880(明治13)年から1886(同19)年にかけて作成された。その範囲は、関東平野のほぼ全域と房総半島、三浦半島に及んでいる。迅速図という言葉は、この時代よりやや後になり、全国規模で三角測量が実施され、精度の高い三角点に基づいて作られた地形図が正式図と呼ばれるのに対比される意味で使われている。刊行されたものは1色刷りだが、その原図は美しく彩色されている。原図だから本物は1つしかないが、その復刻版(下)が作られている。



2万分の1迅速測図原図「東京城南芝麻布及赤坂区近傍」は1881(明治14)年2月、鮎川富五郎陸軍歩兵少尉によって作成された。この地図で見る薩摩藩屋敷の付近は、海を埋め立てて敷設された鉄道が出現したものの、町並みは、明治維新当時と大きくは変わっていないようだ。勝・西郷会談が行われた薩摩藩の蔵屋敷は、Y字型をなす札の辻交差点からやや東より、東海道の海側にあったが、この地図の上では、特にその場所を示す目印はない。

ところがそのすぐ北のほうに、薩摩藩の当主、島津家の家紋である丸に十の字が大きく見えるではないか。その場所は、幕末に過激派により焼き討ちに遭った薩摩藩の上屋敷があったところなのである。さすがに官軍の勝者、明治新政府の実権を握った薩摩藩がやることは違う。地図の上にしっかりと自分のマークを描いている。

こう考えるのはたぶん誤解であって、薩摩藩上屋敷跡の丸に十の字の形は、競馬場の走路の形なのである。この場所は、この地図ができた当時、三田勧業局育種場になっていて、その中に競馬場が設けられていたのである。広大な薩摩藩の上屋敷跡が育種場になり、その中に競馬場が設けられ、1周約1200メートルの走路の形がたまたま丸に十の字の形になったということなのだが、うまく出来過ぎている。

しかし、競馬場はその後まもなく廃止され、育種場も移転した。現在この場所もビル街になっており、丸に十の字を現在の地図で見ることはできない。かつての薩摩藩の威勢も、明治の風情とともに風化している。

2万分の1迅速図が作られた当時、西郷隆盛は既に失脚している。それはたまたまということではなく、大いに因果関係があることなのである。1877(明治10)年の西南戦争を戦い、勝利はしたものの激戦を経験した当時の陸軍、特にそのリーダー山縣有朋は、軍事作戦上正確な地図が不可欠であることを痛感した。その結果、帝都の防衛上緊急的に必要なものとして、全国的な地形図整備計画の実施に先駆け、陸軍の重要事業として2万分の1迅速図を作成したのである。

現実の世界でも地図の上でも、「明治は遠くなりにけり」である。そう思いながら勝・西郷の会見地を去りつつあった私だったが、そのとき私の目は、一瞬点になってしまった。記念碑は、第一田町ビルというビルの敷地の片隅にある。記念碑の後ろに、そのビルが建っている。そのビルの入口の上には、「第一田町ビル」という横書きの表示があるのだが、その文字の先頭には、マークがついている(写真下)。そのマークは、「田」の字をデザイン化したものと思われる。「田」の字が太り、丸くなっている。丸に十の字になっているではないか。



西郷隆盛の子孫の揮毫は、西郷、勝の順になっている。しかし、その下の説明文は、勝を主体にしたものになっている。日中、日韓などという表現が相手国の側に立てば中日、韓日というように反対になるように、記念碑の書き方1つにも、微妙なところがある。それはともかく、このビルと薩摩藩との関係を私は知らない。マークを作るに当たって、薩摩藩を意識したのかどうかも知らない。しかし、うまく出来過ぎている。地図の上で、実際の現場で、薩摩藩屋敷は面白いものを見せてくれる。



NONOの目

デザイン・福田繁雄



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