| 「パートナーに恵まれて」 November
04, 2004 |
杉原輝雄の選択
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 | 植竹 伸太郎
ウエタケ・シンタロウ
朝日新聞社会部で警視庁記者クラブなどを担当。横浜支局長などを経て総合研究センター主任研究員。日曜版連載「旅する記者50人」で「聖地−−ゴルフの巡礼者たち」を執筆。 |
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去年の春、主治医に生体肝移植を受けるよう勧められたとき、ぼくは思わず聞いてしまった。「だけど先生、そんなすごい手術をして、またゴルフができるようになるんですか」
いま考えてみると、生きるか死ぬかというとき、それも、肝臓を提供してくれる妻をも危険にさらそうというときに、ゴルフのことなどを口にした自分に、あきれてしまう。しかし多分、ぼくはその時、生きることの意味を本能的に探ったのだと思う。
杉原輝雄がトーナメント会場での記者会見で、「ぼくは前立腺がんなんやけど、手術はしません。時間がもったいない。あと2年は第一線でプレーしたいんや」と衝撃の告白をしたのは、98年4月である。当時彼は、今のぼくと同じ60歳だった。
主治医の話を聞きながら、ぼくはこの時の杉原のことを思った。彼は日本オープンをはじめ国内54勝、海外1勝、シニア6勝の戦績に輝き、永久シード権をも持つ現役最年長のプロゴルファーである。その彼と、ゴルフ歴10年のアマチュアで、ハンディキャップも20台半ばをうろうろしているぼくとを比べてみても、もちろん何の意味もない。
意味はないが、ぼくには彼の気持ちが分かる気がした。アーノルド・パーマーも前立腺がんを患い、手術を受けて復帰した。しかし杉原は、この7歳年上の大天才と自分とでは、資質もパワーも違うことを知っていたのだろう。
この大天才にして手術から復帰までに1年かかった。杉原にはその1年がもったいなかったのである。彼にとって現役復帰とは、ただツアーに出ることではない。常に予選を通過し、できればもう1勝することである。彼はがんの進行を抑える女性ホルモンの注射も、「飛距離が落ちるから」と避けている。
ぼくは杉原を思いながら、もう一人のプロゴルファー、岡本綾子を思った。日米のツアーで活躍していた岡本は1985年、ついに椎間板ヘルニアでダウンした。すでに「世界のアヤコ」になっていただけに、疲労がたまり、痛み止めの薬を飲んでの出場が続いていたのだった。
岡本はマイアミの病院でパパイア・インジェクションという、日本では認められていない治療を受けた。最悪の場合は選手生命を絶たれる危険があった。それでも彼女は、筋肉にメスを入れることになる手術を拒否したのである。半年後、彼女は奇跡の復活を遂げる。復帰第2戦で優勝すると、翌年には外国人として初めて米LPGAツアーの賞金女王になったのである。
前立腺がんの手術がどういうものか、よくは知らない。ぼくの手術の場合は、まず胸元から鳩尾あたりまで垂直に切り下げ、そこから右腹部を横断し、右脇腹を切り上げる。さらに鳩尾から左腹部へと横断線を延長する。要するに天地が逆の、ちょっと歪んだT字型に切開したのである。
腹部の筋肉は縦に走っている。手術では、それをぶつぶつと切断することになる。いったん切断された筋肉は、表面の皮膚などを縫合しても、元に戻ることはない。別の組織が筋肉に育つのを待つのである。
半年も経てば、日常の生活をする上では何の支障もなくなる。が、体を捻るような激しい運動ができるかどうか。加えてぼくの場合は、表面だけでなく肝臓につながる血管などを、切断したり吻合したりしている。体を捻るとこの管類が伸び、縫い目がちぎれたりすることはないだろうか。
幸い予後は順調で、手術から一年後には練習場に通い始めた。おそるおそるアイアンを振ってみたが、傷跡が痛むことはない。ドライバーを振っても大丈夫だ。コースに出てみた。すぐ疲れるのには参るが、乗用カートを使えばなんとかなる。先日はついに、所属クラブの月例競技に出場した。成績は惨憺たるものだった。まあ、仕方ない。体がゴルフを忘れてしまっているのだ。
では、手術をしなければ、この1年半でハンディを減らすことができたかというと、そうも言えそうにない。手術をしなかった杉原は、01年3月のダイドードリンコ静岡以来3年半、46試合連続予選落ちを続けている。それも、最近は最下位という不名誉のケースが多い。アマチュアのコンペなら「ブービーメーカー」として、照れ笑いしながら賞品を受け取るところだが、プロはそうはいかない。
それでも杉原は激しい筋トレを続けている。サム・スニードが持つ米レギュラーツアーでの67歳2カ月21日という最年長予選通過記録を破るためである。ぼくも、7歳年上の杉原が挑戦を続けている限り、脇腹を押さえながら、ハンディを一つでも減らす努力を続けなければならないだろう。
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