来年は、戦後60年にあたる。
戦争も敗戦もはるかに遠くなった。日本では、人口の4人に3人が戦後生まれである。
それでも、戦後はなかなか終わらない。小泉純一郎首相の靖国神社参拝問題をめぐって、日本の世論が真っ二つに分かれ、日本と中韓両国がささくれ立っている。
先の大戦の悲惨と平和の尊さを想起し、死者を追悼する行事が来年、世界中でさまざまに予定されている。
先月のAPEC(アジア太平洋経済協力会議)の際の日中首脳会談で、胡錦涛(フー・チンタオ)中国国家主席は「歴史は避けては通れない。適切に対処して欲しい。とくに来年は反ファシスト勝利60周年の敏感な年だ」と述べた。
「敏感」部分は、主として日本である。北京・盧溝橋の「中国人民抗日戦争記念館」は現在、改装中だ。「抗日戦争の偉大な過程を全面的に反映させ、日本軍国主義による人民惨殺、植民地統治などの犯罪を根こそぎ暴き、中国の反ファシスト戦争における重要な役割と多大の犠牲を十分に展示する」(北京日報、11月21日付)ことができるようにするためだ。
その「役割と犠牲」を誇示すべく、来年、国際的な式典を自ら主催してはどうかとの構想が中国党・政府部内にはある。
中国外務省の高官は「これまではこういう記念式典は国内だけでやってきたが、これからは国際的にやろうという考えが出てきている。その一環としてそういう構想が一部にある。ただ、まだ決まったわけではない」と私に語ったが、ロシアが来年5月に主催する「反ナチスドイツ勝利60周年記念式典」に想を得たこともあるだろう。
これは、国連創設60周年祝賀とからめて、ロシアが推進。国連総会は先月、来年5月8、9両日を「記憶と和解の時として宣言する」ことを決議した。ソ連に迫害をこうむった中欧・東欧には「メッセージはいいが、メッセンジャーがよくない」との反発があったが、米英仏は賛同した。ロシアはドイツを招待、ドイツは首相派遣を決めた。
プーチン政権は、米国とともに連合国として参戦した先の大戦の勝利という歴史シンボルを政権浮揚のために使いたい。超大国の地位を喪失したロシアにとってそれは大切な心理的代償であり、外交資産なのである。この点は中国も似通っている。「抗日」勝利の見返りとしての国連安保理常任理事国の地位と正統性、米中関係維持、対日圧力……戦後60年を願ってもない「外交資源」ととらえている。
それを活用する機会は「7月7日、8月15日、9月2日、9月18日、12月13日と何度も巡ってくる」と中国のシンクタンクの研究員の一人は言う。それぞれ、盧溝橋事件(1937年)、日本敗戦(45年)、ミズーリ号艦上の降伏(同)、柳条湖事件(31年)、南京虐殺(37年)の日付である。「小泉首相が靖国神社に行った場合、それに対する報復としてそれらをその都度動員することができる」(同研究員)と言うのだ。もし日中がそのような外交神経戦に突入すれば、来年はまことに憂うつな年となる。
一方、韓国との間では日韓国交正常化40周年を迎える。両国政府は来年を「日韓友情年2005」と定め、各種の行事を計画中だ。
1965年、両国は日韓基本条約を締結した。日本は賠償の代わりに、対韓経済協力を行った。それは韓国の経済発展に寄与したが、その過程で積み残した問題も多かった。元従軍慰安婦に対する謝罪、補償もその一つである。韓国議会はこのほど、「慰安婦の名誉・人権回復のための歴史館建立」を求める決議を採択した。
合わせて、基本条約締結の政策決定過程を明らかにするため外交文書の開示要求が韓国国内で強まっている。それは、盧武鉉(ノ・ムヒョン)政権が進めている「親日派」に対する歴史「清算」運動の一環でもある。
盧大統領は、今年の独立記念日での演説で「今も親日の残滓(ざんし)が清算されず、歴史の真実さえ明らかにできていない。歪曲(わいきょく)された歴史を正さなければならない」と述べた。そのために「糾明法」をつくった。
朝鮮半島で「親日派」が登場したのは日露戦争後、日本が韓国を保護国とした1905年の第2次日韓協約からその5年後の日韓併合までの間とされる。折しも来年は、閔妃暗殺110年、第2次日韓協約締結100年に当たる。
「解放後、李承晩政権が親日の究明をやろうとしたが、できなかった。冷戦がやってきて、韓国戦争(朝鮮戦争)が勃発(ぼっぱつ)した。そして、反共権威主義体制が固定化した」と与党・開かれたウリ党の姜昌一国会議員は言う。
冷戦が歴史をゆがめてきたことは否定できない。だが、冷戦後もまた、歴史をゆがめようとする動きから世界は自由ではない。
中国は共産党独裁国家だが、経済とメディアは急速に市場化されつつある。冷戦終結で社会主義イデオロギーが崩壊し、政権維持を正当化する新たなイデオロギーを必要としている。それが愛国主義とその核心としての「抗日」民族主義である。
江沢民前国家主席は、日本には「低三下四」(やたらにペコペコする)せず毅然(きぜん)と当たれと外交当局に指示した。江沢民時代、「愛国主義教育基地」という名の抗日記念館が各地で建設された。
加えて、市場化の進捗(しんちょく)で、階級史観が薄まった。日中正常化の時の「加害者は日本の軍国主義者であって、日本の民衆も被害者」という前提があいまいになり、「日本は信用できない」(江沢民国家主席が金大中韓国大統領に語った表現)という日本人を一くくりにする対日認識がのぞくようになった。
一方、朝鮮半島はいまだに二つの国家に分断されている。北朝鮮は危機的状態にあり、核を体制維持のカードに使う危険な賭けに出ている。韓国ではある種の社会革命的怨念(おんねん)のこもった親北民族主義がうねっている。
「親日派」批判にしても、「親日悪玉論」の印象を和らげるため、「親日」の代わりに対日従属を意味する「附日」という表現を使う案を検討していると姜議員は言ったが、野党ハンナラ党の朴振国会議員は「盧政権は、親日派断罪は韓国の国内問題で日韓関係には影響を及ぼさないとしているが、そんなことはない。それに続いて戦後の親米派攻撃にも広がり、対米関係にも影響を与える」と警告している。
日本の場合、90年代の経済停滞による「失われた10年」、中国の台頭、北朝鮮のテポドン発射、拉致問題などにより、『被害者』意識をこもらせたナショナリズムが高まっている。
これに湾岸戦争のトラウマとその後の「普通の国」願望がからみつく。「普通の国」になりたいのに中国に抑え込まれている、国に命をささげた人々に感謝の気持ちをささげたいのに中国に妨げられている、といった反発と恨みが広まりつつある。
東アジアの国際政治では、歴史が脇役から主役へと躍り出てきたように見える。ここでは、過去の方が未来よりむしろ不可測的である。
来年の戦後還暦。歴史問題を少しでも克服するため、何をするべきか。日本に絞れば、次のような課題に政策的、実務的に取り組むことだろう。
▽戦後50周年の際の総理大臣談話を歴史問題に対する基本認識として再確立する。
95年、日本政府は村山富市首相の総理大臣談話を発表した。それはなお不十分かもしれないが、従来の日本政府の公表したどの文言よりも直截(ちょくせつ)に日本の戦争責任を認め、悔悟の気持ちを表していた。にもかかわらず、それはアジアと世界の人々に十分に知られていない。
今年の夏、川口順子外相(当時)が中国の李肇星(リー・チャオシン)外相と会談した際、川口氏は「村山談話」に言及した。漢字でどう書くのかと聞く李氏にそれを記したところ、「(李氏は)ピンときた風はなかった。恐らく知らなかったのだろう」とその席にいた日本政府高官は受け止めた。
いや、日本でもどれほど多くの人々がそれを知っているだろうか。なぜか、それは「総理大臣談話」ではなく「村山談話」と呼ばれることが多い。まるで村山連立政権時代ゆえの「変則」発言と言わんばかりである。
▽東アジアの地域主義と地域協力を形成する。
東アジア諸国の関係が経済統合も含めこれほど密接になったことはかつてなかった。日本にとってはアジアとの信頼と和解を築く上でまたとない機会でもある。歴史問題のせいで地域協力を滞らせてはならない。過去に思いを致す時、この点、日本の責任は二重に大きい。
米国の同盟国である日本が、東アジア共同体と日米同盟を両立させ、地域の平和と安定の重しとして受け入れられるかどうか。ここはまさに、国家百年の計にほかならない。
▽日本の戦後体験とその過程で築いた民生大国としての資産、資源を世界の平和・安定と経済発展のために分かち合う。
小渕恵三首相と金大中韓国大統領が98年に始動させた「未来志向」の日韓和解プロセスは、平和憲法や途上国援助などの日本の戦後経験に対する同大統領の高い評価を踏まえて初めてできた。
日本にとっての「未来志向」とは、戦後経験のうち国際社会との共生の本質を継承し、発展させることである。折しも来年は、インドネシアでバンドン会議50周年が催される。100カ国近いアジア、アフリカの国々の首脳が出席する予定だ。小泉首相も出席する意向だが、戦争の反省・教訓、そして、戦後の出直し、開発途上国への国づくり・人づくり協力、紛争予防、平和定着、国連での日本の新たな役割と責任、アジアとアフリカの新たな連帯などの構想を、首相は打ち出して欲しい。
▽長期的な国益の観点から歴史問題をとらえる。
中国首脳が首相の靖国参拝を思いとどまるよう要請した後、「中国が行くなと言う以上、行かない選択はない」といった反応が出たが、あまりに受け身、状況対応型でいささか情けない。歴史から学ぶのは、何よりも自らがよりよく、より賢く生きるためにするのである。
中曽根康弘元首相は85年、戦後40周年に当たって靖国神社を公式参拝、このときも日中は激しく緊張した。中曽根氏は以後、参拝をやめた。同氏は国会答弁で、参拝中止の理由を「国益」に求めている。政治指導者はその国の「首席外交官」(diplomat in‐chief)であることを、政治家は思い知るべきである。
▽「どんな国にしたいのか」。
中曽根氏は同じ答弁で、「日本には民主主義に応ずる正しい反省力もある」とし、それを「国際的に示す必要」を強調している。失敗や過ちに対する反省をどこまで真摯(しんし)に行い、それを出直しのバネとし、未来に向けての国家像と国家構想に反映させていくか、その過程自体が、日本のアイデンティティーをつくっていく。すなわち、日本は、自らをどのような国にしたいのか、どのような国として歴史に記憶されたいか、という志の領域の問題なのである。
心を大きく、広く、開いて、戦後60年を迎えたいと思う。
◇
〈2005年の主な○○周年〉
▽日清戦争終結(下関条約)110年=1895年4月
▽閔妃暗殺事件110年=1895年10月
▽日露戦争終結(ポーツマス条約)100年=1905年9月
▽第二次日韓協約(乙巳保護条約)締結100年=1905年11月。
▽国連創設60年=1945年4月。
▽広島・長崎原爆投下60年=1945年8月。
▽終戦60年=1945年8月
▽バンドン会議50年=1955年4月
▽日韓基本条約締結40年=1965年6月
◇
▽村山富市首相談話の要旨(95年8月15日)
いま、戦後50周年の節目に当たり、われわれが銘記すべきことは、来し方を訪ねて歴史の教訓に学び、未来を望んで、人類社会の平和と繁栄への道を誤らないことであります。
わが国は遠くない過去の一時期、国策を誤り、戦争への道を歩んで国民を存亡の危機に陥れ、植民地支配と侵略によって、多くの国々、とりわけアジア諸国の人々に対して多大の損害と苦痛を与えました。私は未来に過ち無からしめんとするが故に、疑うべくもないこの歴史の事実を謙虚に受け止め、ここにあらためて痛切な反省の意を表し、心からのお詫(わ)びの気持ちを表明いたします。また、この歴史がもたらした内外すべての犠牲者に深い哀悼の念を捧(ささ)げます。
敗戦の日から50周年を迎えた今日、わが国は深い反省に立ち、独善的なナショナリズムを排し、責任ある国際社会の一員として国際協調を促進し、それを通じて、平和の理念と民主主義とを押し広めていかなければなりません。
(2004/12/30)
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