大地震に見舞われた長岡市に住む本間幸一さんに電話した。本間さんは田中角栄元首相の選挙区を仕切って国家老と呼ばれた秘書である。
「家の中のものがいろいろ落ちましてね。でも大丈夫です。電気は地域によってついたりつかなかったりしています。ガスが止まっても灯油がある。昭和39年の新潟地震より少し弱いくらいかな。あのとき角栄先生はヘリコプターで被災地に来ましたね」
こんどの新潟県中越地震の被災地のほとんどは、田中角栄を生んだ旧新潟3区に属する。病院で呼吸器のチューブがはずれて亡くなった76歳の入院患者、「大地」ちゃんという名の2カ月の赤ちゃんのショック死……。私はかつて新潟支局員としてこの選挙区を走り回ったから、現地の風景や人々が目に浮かぶ。とても心配である。
小千谷市塩谷地区では小学生3人が死んでしまった。かつてここは市街に出るのに雨乞山が屏風(びょうぶ)のように立ちはだかり、村人は険しい峠を往来した。村人たちは昭和11年から7年の歳月を費やしツルハシで手掘りのトンネルをくりぬいた。それが孤立した山村の生命線だった。
昭和58年になって12億円を投じて車の通れる新しい塩谷トンネルができた。それを田中角栄に陳情し続けた地元のリーダー関慶司さんの家を何度か訪ねた。ニシキゴイを飼って山菜の豊かな静かな山村だった。当時60戸ほどの僻村(へきそん)に12億円は過剰投資ではないかと議論になったけれど、あんなにも苦労して築き上げた自分たちの土地が一瞬の地震で壊れる。その悔しさはいかばかりだろう。
山古志村はかつては二十村郷と呼ばれ長岡市の東側の連山に点在する集落から成り立つ小さな村である。信濃川の平野から切り立って、急な山道をはいあがる「天上の村」といった趣がある。夏は棚田を耕し、冬場は豪雪に閉ざされるので男たちは出稼ぎにでかけて不在だった。
「ただいま、父さん行ったの」「ああ」
いつもと変わらぬ母の声
でも家の中はなぜかガランとしていた
心なしか母の声も無理しているように聞こえる
そのころ山古志村の中学1年生の女子生徒がこんな詩を残していた。
けれども山古志村でもトンネルを掘り山道を舗装してぐんと便利になり、除雪も行き届くようになり、ここから長岡に冬でも通えることになって出稼ぎも減る。
だが、直下地震に襲われたこの村の上空を飛んだヘリコプターからの映像をみると、土砂崩れに家は流され、道路はずたずたの様子である。私が訪ねたあの家この家、どうなったか。2200人の村民全員が村外に避難とは……。村はどうなるのか。
あのころ私は、出稼ぎに行かなくちゃならない僻村で住まずに別の土地に住んだらどうかと村人に聞いた。記者さん、そういうけどね、わしがこの世に生まれ出たのがたまたまこの土地なんだ、先立つものがなければ移ろうにも移れないし、角栄さんに公共事業を頼んで生活をよくしてもらって、先祖の土地でもう少し便利に暮らしたいと思ってはいけないかね。そんな風に村人たちは答えた。
一日中、地震被害を伝えるテレビを見ていたら「こういう土地に人が住むのは社会的コストがかかる。思い切って私権を制限することを考えたらどうか」という意見が識者から出されていた。こんな土地に住んでいる人たちがいるから国も自治体もケアにカネがかかってしょうがない、よその土地に移ったらどうかということか。まあ悪意ではないとは思うけれども、何かにつけてコストコストとおっしゃる風潮はいやだね。
この間の台風ではんらんした信濃川流域もかつての角栄の選挙区である。水害、地滑り、雪害に加えてこんどの大地震。もともと公共事業は生活の改善、災害防止のためであって、はじめからカネ食い虫の無駄遣いであるわけではない。それにしても営々と積み重ねた公共事業と人々の平穏な生活が10キロ地下の地殻変動であっという間に崩れ去る恐ろしさ。
ああ「大地」よ。こころ鎮めよ。人々の切ない生の営みにもっと微笑(ほほえ)みを。
(2004/10/26)
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