「第6回の『朝日いつかは名人会』、楽しかった?」
はい。第5回までとは――、とくに第5回とは、少しモードが変わった感じはありましたけど、聴きごたえがありました。
「そうだろうね。とくに前回は二つ目二人が個性派、創作派でパーソナリティー豊かな人材。今回はオーソドックスな二人。これは同じネタをやったとしても様変わりして当然だ。ナビゲーターも林家たい平初登場で、彼も彼なりの世界をつくる人だから、これまでと違うのは、これまた当然の結果だね」
落語にもいろいろありだとつくづく思いました。
「その認識は大切だよ。落語にはいろいろなおもしろさがあり、いろいろな落語家がいるというのに、この落語ブームのさなかでさえ、それに気付かないファンは多い。どうも特定の落語家のファンになると排他的になってしまって、他のタイプを受け付けなくなる人がいるな」
それが現代の落語ファンというものでしょうか。
「いや、落語ファンというのは、昔からそういう傾向があってね。とても人間的な、人間くさい芸だからそうなりがちなこともわからないではないが、それではいずれ、芸との付き合いが浅いところで行き詰まる。好き嫌いが最大の判断基準になってしまうような人はあまり芸能ファンには向いていないよ」
わア、ファンにも向き不向きがある!
「そう。ま、好きも嫌いも個人の自由だなんて理屈を言うやつはますます芸のセンスがないね。つまり、志ん生と文楽と、どっちがいいなんてことには意味がない。文楽のよさがわかって初めて志ん生のよさをわかり、その逆もありだ。前回と今回の『朝日いつかは名人会』の大きな相違は、じつは聴き手にも名人が生まれるための試金石なのさ」
聴き手にも名人があり得る?
「うん、いつかは――ってことだがね。さて当日の話だが、前座は二回連続で柳亭市朗。柳家系の前座らしく『狸の札』をやった。素直で伸び伸びしているところが彼の身上だね。大切にしてほしい素質だよ」
三遊亭金翔さんは心理表現に微妙なところがある間男(まおとこ)の噺でしたね。
「あの『紙入れ』という噺は本来は真打ネタだ。姦通の現場に置き忘れた紙入れに、帰宅した旦那が気付いたのかどうかの心理的なかけひきがある。二つ目には荷が重いはずだが、金翔は正攻法でやって、しかもそこそこ噺のおもしろさを出した。二つ目の『紙入れ』としては上出来。ウケさせようとあがいて過剰描写をするといやらしくなる噺で、大看板でもそんなやり方をする落語家がいるから困ったものだが、金翔にはそんなことはなかった。師匠の金時、大師匠の金馬と実力のある人が担う一門にふさわしい若手だと思う」
柳家三之助さんの『棒鱈』もしっかりした、上手な口演だと思いました。
「酔態の表現、場面転換の段どり、これまた真打はだしだよ。立派なものだ。柳家さん喬に教わったのだろうが、先代小さん以来の伝統の骨格が感じられた。決しておもしろい噺ではないが、腕がよくて描写が的確だと俄然笑いを生む。多くの噺にこの水準を達成出来れば、もう真打は目前だよ。正攻法だけれど柔軟で明るく朗らかな芸を大きくしていってほしいな」
正攻法派の二人を指名したのはたい平さんですよね。
「林家たい平は人気者で、お客へのサービスを忘れない、また笑いを生めれば何でもやるというコースをたどった落語家のように一般では見ているが、じつはね、とてもまじめで、根はオーソドックスな志向の持ち主だ。柄にも声にも恵まれているのだからそれが一番の道だね。亡き志ん朝さんが目を懸けていたのも素質を見抜いていたからだろう。若いうちはウケるために何でもやったが、そろそろ本来のあるべき姿へ絞り込んでいきたい――、という決意も高座で述べていたろう」
はい。『愛宕山』でしたね。志ん朝風でしたか?
「かなりね。狼を熊に変えたり、いろいろ工夫もあったが、後輩二人の前ということあってか、演出は抑制気味に、演技はパワフルな熱演で、これからの林家たい平をうかがわせるいい高座だった」
三人のトークはこれまでとちがってかなりまじめでしたね。二人の入門のいきさつなどが誇張なく語られて、好感がもてましたし、特殊な職業ではあっても自分自身を見据えてその道にトライする気持ちはふつうの若者と変わらないのだということを初めて実感しました。たい平さんが上手に聞き役に徹して、そういう会話に導いたのも印象的でした。
「模範的ナビゲーターかな。林家たい平が一段と大きく、大人になった感は強い。今後が楽しみだね。ナビゲーターが誰なのかによって客層が変わるようではまだまだ落語ブームも根が浅く、これまで同様にやがて冷え込むとしか思えないけど、朝日いつかは名人会のお客さんは毎回とてもおおらかに、素直にいい笑いを生んでくれる。演者には何よりの励みだ。お客さんにもエールを送りたい。すべての落語会場がこうであってほしいものだね」