落語志願者とその親
現在の東京落語界の第一人者・柳家小三治さんは19歳で五代目柳家小さんに入門している。教育者の家庭に育った小三治さんが両親の強硬な反対を受けながら落語家の道へ身を投じた話はかなり有名だ。
お若い方々、半世紀前の人の心って、想像がつきますか? 小三治さんの入門は昭和34年、西暦で言えば、20世紀の1959年です。翌年にはいわゆる「60年安保」の騒動があって世の中は激しく揺れ動きましたけど、大きく見れば日本は経済成長が軌道に乗って、暮らしにもだいぶゆとりが生まれていた。まだ敗戦から15年たっていなかったけれど、昭和34年の春には皇太子の御成婚があって、テレビもようやく普及し始めていたのです。
長嶋茂雄さんが読売ジャイアンツのルーキーとして華々しくデビューしたのは前の年でしたね。プロ野球は巨人と西鉄の対決時代、大相撲は栃錦に若乃花(初代)の天下。そのころラジオでは落語が花盛りで、五代目古今亭志ん生や三代目三遊亭金馬が週1本のレギュラー番組を持っていたほどでした。
電波は全国の茶の間へ大量に落語を届けた。それまで落語になじみが薄かった地方の人々も落語に親しむようになった。平成の今日、都心の寄席は減少しても落語家が全国津々浦々で仕事ができるようになったのは、20世紀なかばのラジオのお陰だと思います。そう、あのころはね、まだ子どもが自分の部屋を持てるほどじゃなかったから、家族3世代がひとつ茶の間でラジオやテレビを楽しんでいたのです。
ラジオ落語が落語家志望の少年を大勢生み出した。小三治少年もその一人。そのころは“のど自慢”の演芸版みたいなラジオ番組があって、アマチュア少年の小三治はその常連だったのだそうだ。あげく、両親の意向にそむいて入門を決心したってわけ。
いまなら、それもいいだろうと認める親が多いことだろう。内心困ったり、危ぶんだりしながらも、本人の人生だから、と干渉を控えて見守る姿勢をとる。
でもね、まだ戦後14年だったんです。小三治さんが生まれた昭和14(1939)年ってのは、ヒトラーのドイツがポーランドに侵攻して第2次世界大戦が始まった年です。翌年は大日本帝国の「紀元二千六百年」、こちらももはや太平洋戦争前夜。明治に生まれた小三治さんの両親がいまの親と同じようであるわけがない。
私も小三治さんと同世代だからよくわかるのですが、あのころの、われわれの世代の親というものは「父権」という、むかしながらの力を信じていた。「母権」って言葉がないのはやはりそういう時代だったからのこと。近代人として「個人の自由」も頭ではわかってはいるが、親は子の人生にとても責任感を持っていた。人生の先輩として、いや父権者として、子の人生を誤りない方向に導かなければならない。それが子の幸福につながるのだ――。
明治大正時代の落語家はほとんど親に反対されながら落語の道へ入っていますが、教育者を親に持った小三治さんにとって、落語家入門はむかしにまさるイバラの道だったようです。いまほど落語の文化的バリューや落語家の生活ぶりが一般に知られていなかった時代ですし、芸能は一般社会とは別種のところという観念が強かったから、無理もありません。
猛烈に反対した小三治さんのお父さんは、小さん師匠に会った上でようやく承諾したそうです。小さん師匠が親の了解を絶対条件としたからのことでしたが、お父さんも小さん師匠の人柄に何かを感じたのでしょう。承諾というよりは黙認――あきらめの線だったようですが、明治大正の親のように「落語家になるなら縁を切る」と宣言できなかったあたりに悩める戦後の親のかなしさを感じます。