江戸の娯楽、昼は芝居で夜は寄席
寛政10(1798)年に産声(うぶごえ)をあげた寄席は時流を生み時流に乗って、続く享和、文化、文政の30年間に庶民の娯楽として定着、発展した。落語も数が増え、ストーリーや構成が豊かに整って、いまにつながる状態に成熟した。
次の天保期は幕府の改革・緊縮政策が過熱して寄席は冬の時期に入ったが、続く弘化、嘉永の頃――、そう、黒船渡来に始まる幕末の幕開けから明治にかけては、もう誰も寄席、落語の勢いは止められなかった。かの三遊亭圓朝はまさにその時代に活躍して近代落語を確立した歴史的人物ってことになる。
江戸のむかし、寄席は夜の娯楽だった。1960年代までの名門・人形町末広は夜席専門だったし、池袋演芸場も旧建物の頃は休日以外、昼席はやらなかった。だから、その伝統はついこの間まで保たれていたわけ。
それが昭和の末以降、寄席は夜より昼のほうが入(い)りがいい。世の中、変われば変わるもの。芝居だって昼公演のほうが観客動員がしやすいという。フレックスタイムの時代、夜はマイホームでテレビってことか。だけど、芝居は江戸時代すでに昼専門。早い話が、昼は芝居、夜は寄席、そんな娯楽の住み分けが確立していた。
へえ、むかしのエンターテインメント業界は合理的だったんですね。
いや、別に競合を避けていたわけでもなんでもない。そう住み分けざるをえなかったってだけなのさ。なにしろ電気がなかったからね。
え、どういうこと?
芝居は寄席に比べてずっと建物が大きい。客席も舞台もはるかに広い。さまざまな衣装や背景もあって、これはまず第一に見るものなのだ。むかしから芝居は「見に行く」と言うでしょ。芝居見物という熟語もある。
大きな建物の中で見るためには明るさが必要。雨の多い日本ではヨーロッパのように野外劇場が発展しなかったから、建物の中をどう明るくするかが最大の課題だった。ロウソクや行灯(あんどん)、提灯(ちょうちん)の系列にまさる照明器具はまだない時代だから、それに加えて間接的に外光をとり入れることでしのいだ。だから、日没以降はやりにくいということさ。
江戸時代、芝居小屋は明け方から興行をしていた。むろん、大部分の客は昼頃にやってくる。それまでは下っ端(したっぱ)の役者の稽古公演みたいなもの。いまの大相撲の興行体制と同じだと思えばいい。夕方まででも公演時間はトータル10時間以上にもなったので、長い長い「通し狂言」も生まれたってわけ。いま、「仮名手本忠臣蔵」などは昼・夜通したって全段上演はできないのだからね。
寄席は規模が小さいし、落語家は素顔で特別な衣装は着けない。明治までならば、落語家と客の服装は同じようなもの。座ってしゃべるだけで動きの少ない芸だから、最小限の照明でこと足りる。高座の、落語家の左右に座高と同じくらいの高さの燭台(しょくだい)が一本ずつ。それぞれに大きなロウソクが立っている。その明かりだけで高座はもちろん、小さな寄席なら客席の前半分くらいまではまかなえる。
芝居と違って「落語を見に行く」とは言わない。むかしからみんな「聴きに行く」と言ったものです。