寄席の地域と時代――下町と山の手
大正の前半、といっても90年も前になるが、東京市内には百数十軒の寄席があったという。この頃までが、数の上では寄席の全盛時代といえるだろう。いま“都内”ではない、旧東京市内での話だ。現在の23区の3分の1程度の範囲。新宿も渋谷も池袋もいわゆる郡部で、東京市内は入ってはいなかった。
そんな狭いところにそんなにたくさん寄席があったとは驚きです。それがどうして減ってしまったのです?
大正12(1923)年9月1日の関東大震災で下町が焼け野原になって、多くの寄席が焼失した。しかもその時分から娯楽の世界には大きな地殻変動が起きた。活動写真――映画が急速に大衆娯楽の上位にのぼった。映像を通して欧米の生活や演技を目のあたりにするようになった。浅草オペラやエノケンなどの軽演劇が人気を集める。大正の末期にはラジオ放送が始まって、やがて歌謡曲というジャンルが生まれた。
なるほど。寄席や落語にとっては強敵の新顔ですね。
演芸ジャンル内部にも変動があった。明治に入ってからの浪曲の全国的な人気、大正からの大阪の漫才の台頭で落語は守勢に立たされた。軍国主義へ向かう時期には講談が大いに推奨されて、道楽者や間抜けなやつが活躍する落語は“ためにならない”“くだらない”と見られがちだった。
それはひどい誤解ですね。
と、いまではみんな言うが、7、80年前はその逆だったのだから、時流というのはおそろしいものだ。ちょっと油断をすれば、またそんな時代がやってこないとも限らないから、お互いに気をつけよう。しかしね、心ある人は決して落語のすばらしさを見失いはしなかった。落語もまた冬の時代に耐えて名人や名人芸をじっくり育てたから、戦後に落語のブームがやってきた。これも第1次、第2次とあって、いまは第3次のさなかだね。
むかしの寄席は、やはり下町に集中していたのですか?
傾向としてはそうだった。ただし、下町と山の手の区別はついているようで、実ははっきりしないところがあるし、時代によってその範囲も変動しているから、なかなか話がむずかしい。職人や商人(あきんど)が中心の庶民の町が下町、屋敷地や寺社地が山の手というのが、むかし流の区別だ。「三軒長屋」という長い落語の中に、鳶(とび)の若い衆が正月の獅子舞をしたときの話がある。
ああ、新しい喧嘩の原因になる、思い出の失敗談。
そう。麹町(こうじまち)か番町(ばんちょう)のお屋敷筋で失敗をした一同が「山の手はやめて下町へ行こう」と九段の坂を下りる……というくだりがある。どちらにしても、いまは千代田区で都心の中の都心だが、麹町・番町は山の手、九段坂を下りれば西神田地区でもう下町。これが江戸・旧東京の基本的な構造だね。
山の手には寄席はなかったのですか?
そんなことはない。屋敷住まいの人でも落語ぐらい聴くよ。だけど寄席は下町のほうがずっと多かったのは確かだ。何といっても下町のほうが圧倒的に人口が多い。それに、安価な夜の娯楽だから、昼間働いた職人や商家の奉公人――いまなら店員、あるいは商社のサラリーマン――ただし、ほとんどが店の住み込みだった――が夜は寄席へ行って楽しむ。日本橋、神田、下谷、浅草あたりに寄席がとても多かったのだが、それは職人や問屋の街だったからでもある。