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落語ってこんなにおもしろい

文・京須偕充

真打と呼ぶのはなぜ

2006年09月29日

 ご存知のように、落語の社会には、見習いに始まって前座、二ツ目、真打という三つの階級がある。それについては若手の落語家がよくマクラで私見をまじえてしゃべっているし、このコラムでもある程度まで触れてきたつもりだ。

 でも、入門から二ツ目までの若手時代の話が主でしたよ。真打についてはあまり触れていないようですが。

 真打とは、表向きの身分としては行き着いた地点のようだが、実はここからが大変なのだとも言える。早い話が名人上手といわれる噺家からヘッポコ真打までがいるわけで、大相撲にたとえれば十両力士から横綱までをおしなべて「真打」という一つのクラスに押し込んだ形になっている。これは決して十両力士が“ヘッポコ”だという意味にはならないから誤解のないように。

 でも、対比的に言われると、そういうことになりかねませんよ。

 いやいや、階級を対比してわかりやすく言ったまでのこと。黒白が客観的に明瞭なスポーツの世界と、元来がファジーで、しかも観客や聴衆が自分たちそれぞれのアタマの中でどうにでも黒白をつけようと思えばつけられる芸能の世界とでは、もともと水と油のちがいがあるのだから、どこまでも一緒に考えないほうがいい。

 そうですか。少し真打のことも話してくださいよ。

 「真打」は噺家にとって第二の始まりであると同時にひとつの終わりでもあるから、ここからが、――またしても相撲にたとえれば「本場所」ということで、落語と落語家について何かを言えば、それがすべて直接間接に「真打」論になる。ここではとりあえず、その名称について少し触れようか。

 ああ、それマクラで聞いた記憶がありますよ。ロウソクの芯(しん)を打つから芯打――真打になったって。

 と、よく言われているが、さあどうだろうか。

 え、ちがうんですか?

 しかし、確固たる反対論もないので、一応そんな説が通用しているが――、本当のところ、語源はよくわからない。

 でも、電灯がない時代に落語家の両脇に立っている燭台(しょくだい)のロウソクの芯を軽く打って伸びすぎた芯を落とすと高座がパッと明るくなる。それをする資格があるのは最後にしゃべるトリの落語家だけ。で、トリを「真打」と呼ぶようになり、それがトリの有資格者全体の階級名になった――っていう話、なるほどなあと思ったんですけど。

 だが、芯を打つ、というのはおかしい。本来、芯は剪(き)るものなのだ。長い柄(え)の付いたハサミで演者がパチンと剪って明るくする。打ったのでは灯が揺らめきすぎて目ざわりだし、うっかりすると灯を消してしまいかねない。それに四、五時間の興行中、トリしか芯を剪れないというのも不自然だ。暗くならないよう、各々の噺家が随時剪っていたと思う。

 だけど、江戸時代の寄席の実情を見聞した人はもういないんですからね。本当のところは――。

 そのとおりだが、昭和の名人といわれた六代目三遊亭圓生は燭台を持っていて、たまに江戸風の高座を見せてくれた。十分おきぐらいに芯を剪りながら演じていたな。いまその燭台は孫弟子の三遊亭圓橘が持っているのではないかな。まあ、「真打」とは、芯を剪る作業と、すばらしい芸が真に迫る――真を穿(うが)つ、というあたりが下敷きになって生まれた造語ではないのだろうか……。

プロフィール

京須 偕充(きょうす・ともみつ)
落語プロデューサー
1942年、東京生まれ。ソニー・ミュージック(旧CBS・ソニー)のプロデューサーとして、六代目三遊亭圓生の『圓生百席』や古今亭志ん朝の作品など、数多くの落語レコード、CDの制作を手がけてきた。
有楽町で開かれている『朝日名人会』に加え、06年4月に浜離宮朝日ホールを舞台に始まる『朝日いつかは名人会』をプロデュースする。
『落語博物誌』(弘文出版)、『落語名人会 夢の勢揃い』(文春新書)、『古典落語CDの名盤』(光文社新書)など、落語に関する著作も多い。

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