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落語ってこんなにおもしろい

文・京須偕充

カゼとまんだら

2006年11月23日

 落語家の商売道具にも符牒がありますね。

 「そう。扇子がカゼ、手拭がまんだら」

 これはあまり一般化していませんよね。

 「カゼは当たり前すぎるし、まんだらも仏教の曼陀羅のほうが知られている上に、手拭は扇子以上に実生活から縁が遠いからな」

 この二つ、落語にとっては大切ですね。

 「武士の大小の刀にあたるのがカゼとまんだらだ。話術としぐさの補助に唯一、いや唯二、許されている小道具だからね」

 使わなければ噺がやれませんか。

 「そんなこともない。なくてもやれる噺は、とくに短篇ならば案外たくさんあるものさ。だけど、どうしても必要な噺もずいぶんあるな。ちょっとしたことの表現にも、あるとないとでは大ちがいだから、持ち忘れてはならない、落語家必携の小道具だよ」

 忘れたら、どうするんですか。

 「即、『出直して参ります』と言って高座をおりて、自宅へ取りに帰るべきだろうね」

 まさか!

 「まあ、楽屋に置き忘れたのならば、気がついた段階で噺を中断して、ちょっと断り文句とお詫びを言って取りに戻る。あるいは声をかけて前座に持ってこさせる。滅多にない珍事だが、ないわけではない。また、そういうハプニングを流れの中に溶かし込んでしまうのがその芸人の器量でもあり、寄席芸能の有図無碍なところでもあるのだよ」

 前座が先に気付いて高座まで届けるようなことはないのですか。

 「演者が気づいていないのに、出し抜けに前座が出て行っては演者もまごつくし客も驚く。そんな場合は高座の袖から何らかのシグナルを送って演者に気付かせ、スムーズに受け渡しをするのがいちばんだ。そんな機転のきく前座は表彰状もの。物事は対処の仕方ひとつで天と地ほどの差が出てしまう。しかし、こういう話は例外中の例外なのだから、いつかどこかでおめにかかれるとは思わないほうがいい。まあ、マクラのうちに気が付けば、ベテランの落語家なら、扇子、手拭なしでやれる噺をやって素知らぬ顔をしているよ」

 手拭、扇子は着物のどこへ入れるのですか。

 「それはその演者次第さ。原則も法則もない。取り出しやすいところ、いつもの習慣にしていて、忘れてもすぐに気が付くところということになる。着物にはポケットがないから、携帯品の収納場所は懐(ふところ)か、左右どちらかの袂(たもと)しかないね」

 手に持って出てくる場合もありますね。

 「なかなか観察しているね。手拭は懐に入れることが多いが、扇子は手に持って高座へ出て来て、お辞儀から第一声までの間にさりげなく膝前へ置くということも多い。これもそれぞれの落語家の習慣、癖のようなものかもしれない。噺の冒頭に誰かが訪れて戸を叩く場面がある場合などは、やおら扇子を懐から出すよりも、目の前に置いてあってすぐ手にとれる、というほうがスムーズだし、かたちもいいよ」

 ああ、戸を叩く場面はそのしぐさをしながら扇子で高座の床を叩いて擬音を出しますからね。でも扇子を前に置く習慣があると、高座をおりるときに忘れたりはしませんか。

 「なぜそうアクシデントを期待するのかね。そういうことがあれば、またそのために高座の進行がドタバタすれば、それはそれでおもしろいだろうが、そんなことは落語本来のおもしろさではない。そんな期待で寄席へ行っていては、落語300年の奥の奥へは到達不能だ。日常的ヘマをオーバーにクローズアップしている“お笑い”と落語とは別世界なのだ」

 でも置き忘れることはあるでしょ。

 「しつこいね。そんなときは、その師匠と入れ替わりに高座返し――座布団の引っ繰り返しのために高座へ出て行った前座が、さりげなく回収して師匠に渡すだけのこと。客はまず、気が付かない。前座だって、その意味ではプロなのだよ」

プロフィール

京須 偕充(きょうす・ともみつ)
落語プロデューサー
1942年、東京生まれ。ソニー・ミュージック(旧CBS・ソニー)のプロデューサーとして、六代目三遊亭圓生の『圓生百席』や古今亭志ん朝の作品など、数多くの落語レコード、CDの制作を手がけてきた。
有楽町で開かれている『朝日名人会』に加え、06年4月に浜離宮朝日ホールを舞台に始まる『朝日いつかは名人会』をプロデュースする。
『落語博物誌』(弘文出版)、『落語名人会 夢の勢揃い』(文春新書)、『古典落語CDの名盤』(光文社新書)など、落語に関する著作も多い。

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