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落語ってこんなにおもしろい

文・京須偕充

手拭いへ行く前に、メガネのはなし(1)

2007年04月25日

 扇子のはなしもまだいろいろあるのでしょうけれど……。

 「そうだね、また何か思い浮かべば折りにふれて話すとしよう。扇子だから8回目で末広がりといきたいが、その一つ手前でお開きにしようか」

 そのほうがずっと粋だと思います。そろそろ手拭いにとりかかりましょうよ。

 「そうしよう。だがね、あまりにも扇子が長引いて話が個別的な方向に偏った。もう一度、はなし家が身につける物とは――について考えよう」

 なぜ、扇子と手拭いだけに絞られたのかということですね。

 「そう。他の物はなぜ使わないのか、使ってはいけないのか。使う使わないにかかわらず身につけたり、身近に置いてはいけないのかどうか、と考えるポイントは少くないね」

 高座で他の品物を見たことがないので、そう言われてもよくわかりませんけど。

 「扇子のところで、骨を1本開けばケータイに見えると言ったね。そんななまぬるいやり方でなく、ケータイが要素になる新作を作って、本物のケータイを持って高座でしゃべったとしたら――、ということだ。実際誰かがやった、やらないという話ではなく、そこで落語とは――、と考えるわけだ」

 なるほどね。だけど落語の会へ行くと、そんなアイデアをやりそうな若手の会でも、いや若手の会ほどケータイの電源を切ってくださいとお客に繰り返し言いますから、演者がケータイ持って高座へ出るなんて想像しにくい。

 「だから、そういう話ではないと言うのに。ケータイの是非論ではないのだよ。なぜ扇子と手拭い以外は――、ということなのだ。ケータイはほんの一例さ。考えるヒント。これ、昔の名著のタイトルの話ではないよ」

 でも、ケータイなんて特殊な機能のあるものを例にされるとかえって考えにくい。

 「そうか。ではもっとありふれた、しかも明治時代からあったような物にしよう。メガネをかけて一席やるのはどう思う」

 どう思うと言ったって、メガネをかけてやっているはなし家、大勢いるじゃありませんか。それにメガネを小道具として使っているわけじゃないでしょ。メガネは顔の一部として切り離せない物じゃありませんかね。

 「そう、日常生活でメガネを必要としている人にとっては顔の一部だ。それは明治の昔から変わらない。いや、ごく一部の人は江戸時代からメガネを日常使用していた。だがね、昔の落語家の写真を見てごらん。日常のスナップならともかく、芸を演じているときにメガネをかけたままという例はほとんどない」

 そういわれてみると、五代目古今亭志ん生も八代目桂文楽も……あの時代の人の写真を見るとメガネ・フェイスは一人もいませんね。

 「みんながみんなメガネのいらない眼だったとは思えないし、コンタクトレンズの時代でもなかった。東横落語会などの戦後の名だたる落語会で競った名人上手にはナマで接してきたけれど、誰一人メガネで落語はしゃべらなかった。さあ、ここだ」

 え、どこです?

 「こら、くだらない落語家かぶれは慎みなさい。なぜ昔の落語家はメガネをかけなかったのか。かけた落語家はいなかったのか。近頃かけるようになったのはなぜか。そこらあたりに落語とは何かを考えるポイントがあるってことさ。扇子や手拭いの使い道を細かく詮索するよりも、きっとこちらの方が大事な話になると思う」

プロフィール

京須 偕充(きょうす・ともみつ)
落語プロデューサー
1942年、東京生まれ。ソニー・ミュージック(旧CBS・ソニー)のプロデューサーとして、六代目三遊亭圓生の『圓生百席』や古今亭志ん朝の作品など、数多くの落語レコード、CDの制作を手がけてきた。
有楽町で開かれている『朝日名人会』に加え、06年4月に浜離宮朝日ホールを舞台に始まる『朝日いつかは名人会』をプロデュースする。
『落語博物誌』(弘文出版)、『落語名人会 夢の勢揃い』(文春新書)、『古典落語CDの名盤』(光文社新書)など、落語に関する著作も多い。

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