現在位置:asahi.com>文化・芸能>コラム>落語って、こんなにおもしろい> 記事 文・京須偕充 手拭いの話(5)2007年08月30日 畳んだ手拭いは、たしかに扇子以上にペーパー類には見えやすいですね。 「扇子は巻紙の手紙を読み進めるとき以外には使わない。短文だったら手拭いに限る。証文、帳面の他、日記なども手拭いで見せる。宿屋で宿帳に記載をするときには手拭いの帳面に扇子の筆という構図になる」 左甚五郎ものの「ねずみ」では宿帳に記載する場面がありますね。「火焔(かえん)太鼓」で受け取り、つまり領収書に判の代わりの印を押す場面も手拭いですよね。 「まあ、『火焔太鼓』の受け取りぐらいの場合は、手拭いを使わずに手付きだけですませている。一枚の紙っぺらだから、いちいち手拭いを使わなくてもいいんだ。『三枚起請』の起請文のように重要な書き付けで、しかもそれを読みながら多少の心理的表現を要する書類だと手拭いを使ったほうが演技に重みも出るし、見た目にもサマになるな」 ひとつ質問します。巻紙の手紙を読むときは扇子の骨を一本ずつ開くということですね。読むのはそれでいいとして、巻紙に手紙を書くときはどうするんですか。筆も扇子で見せるのですから、といって扇子二本で見せたら変ですよね。どちらを優先するのですか。 「それはもちろん、筆が優先だ。筆は扇子でなければ表せない。紙のほうは手拭いで表わせる。扇子を開いていくような効果が表わしにくくなるが、それは仕方がない。ただし、そんな場面はありそうに思えて、じつはあまりないのだよ。ほとんどない、と言ってしまっていいだろう」 どうしてですかね。 「手紙を書くしぐさをじっくり表現しても、落語演技としての意味と効果が乏しいからだよ。だいたい、長文の手紙を書きながら迷ったり、書き違えたり、字をまちがえたりしても、どうもあまりおもしろそうではない。聴き手もダレそうだよ。読む場合はね、読んでいる人物が、その手紙の意外な内容を知っていないので心理表現が生まれる」 だから、扇子を開きながら読み進めると、そこにドラマが生まれるということですね。 「そう。『文違い』なんかが典型的なケースだ。読む場面にはドラマがあり、演技のやり甲斐もある。だから自然と、読む場面とその演技は定着し、書く場面は発達しなかったのだと考えていいだろうね。扇子を二本使うのかしらと心配するまでもない。また、本当に二本使ったらぶちこわしだ。付け加えるとね、巻紙の手紙にドラマを生むのは高度な演技なのだよ」 そのあたりがむずかしいために、この頃『文違い』はあまり演じられないのでしょうか。 「そうだと思う。あの噺はそれ以外にも難関がいっぱいあるから、生半可で聴かせてほしくはないな」 手拭いは手紙や帳面、書類以外のペーパーの表現にも使いますね。 「鼻をかむしぐさに手拭いを使う。懐に懐紙があるからといって、鼻をかむ演技を実際の紙でやってはリアルになってしまって客席が不快に思う。手拭いで紙に見せたほうがいい」 縄や紐(ひも)にもなりますね。 「細くまるめればね。ただし、これも時と場合による。『愛宕山(あたごやま)』の谷底で縄をなう場面では手拭いなんか使わないほうが動きがダイナミックでイメージも広がる。首を吊ろうとする場面などもそうで、使う使わないは臨機応変だ」 手拭いで絞殺する場面もあるそうですね。 「昭和の名人・六代目三遊亭円生が『双蝶々(ふたつちょうちょう)』で見せた手拭いを凶器に使う演技はお見事だった。凄(すご)みたっぷり。だが、円生なればこそであってね、型が奇麗に決まらない演者だったら、リアルすぎるからやめてもらいたい」 プロフィール
PR情報 |
ここから広告です 広告終わり どらく
鮮明フル画面
一覧企画特集
落語オーディオブック
ショッピング特集朝日新聞社から |