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落語ってこんなにおもしろい

文・京須偕充

花見の話(2)

2008年04月02日

 花見噺の代表作とえいば『長屋の花見』ですけど、僕らの世代からすれば少しのんびりしすぎていてピンとこない世界でもあるのですが…。

 「そうかもしれないね。平成の落語は新作はもちろん、古典の場合でも刺激的な笑いを重視するから、貧乏長屋の人々がお酒ならぬお茶けで我慢してでも花見を楽しむという気分には実感が湧かないだろうね」

 お酒の代わりに薄めた番茶、蒲鉾(かまぼこ)の代わりに大根の漬物の輪切り、玉子焼きかと思えば色がそっくりのタクアンなんてこと、今ではそれほど笑えません。

 「昔は蒲鉾や鶏卵がとても高価だった――ということを説明しなければならないとなると、たしかに笑いの起爆剤としてはもう失格だ。笑いというものは説明抜きでこそホンモノだからね。しかし、そこはまぁ骨董鑑賞のつもりで温存しておけばいい。さすが名作だけあって、『長屋の花見』にはそれに代わる笑いどころはたくさんあるよ」

 たとえば?

 「電報を打つ金がないので電報用紙に『父死ス、スグ帰レ』と書いて郵便ポストに放り込んだけど、いまだに音沙汰がない、とか、花見は高いところに陣取るのが常識なのに低い所を選ぼうとする――そのあたりはなんともいえないおかしさがある」

 上から茹玉子が転がり落ちてきたら下で拾おうという発想ですね。

 「そう。昔、落語家がおしなべて貧乏だった時代に『物拾う可能性あり月夜かな』という迷川柳を詠んだ例があったが、それに共通する精神構造だ。玉子とタクアンの価格差が逆転した現代でも、人はそれなりの窮乏や不自由の体験を持つものだ。そんな体験や経験知識を落語の人々のそれに通わす、思いを馳せる、という程度のイマジネーションがなければ、落語を聴いても小説を読んでも芝居を見ても、何も感じないはずだ。落語がつまらない場合の責任は演者と聴き手が分担しなければ、どんな芸能文化も存続しないものさ」

 わぁ、落語の話が急にシリアスになった。

 「楽しく笑うのが第一とはいっても心底からチャランポランでは落語は三百年も続いてこなかっただろう。『長屋の花見』で酌(しゃく)を受けるときに『少しでいい』というだろ。ホンモノの酒ならたっぷり注いでくれというところだよ。少しと言ったのにたっぷり注がれて『てめえ、おれに何か恨みがあるのか』と軽くにらむ。ここなどは日常ふつうの酒の酌、杯のやりとりとは全く逆の状況で実におもしろい。数年前に亡くなった五代目柳家小さんはここをごくナチュラルにやっていたが、今の落語家はオーバーにやらないと笑いがとれない。残念なことだね」

 それは芸の差ですか。

 「それもあるが、刺激的な表現に慣らされて聴き手が少し落語不感症になってきた証拠だ。従って落語に求める笑いのハードルが低レベルになって、それが反面で落語の敷居が低くなり、落語ブームが訪れた、と見られなくもないのだよ。ブームは歓迎だが、心配な面もはらんでいるね」

 なるほど。ぼんやり花見もしていられないや。

 「いや、堅く考えることはない。『長屋の花見』のようなスタンダードな噺を心ゆくまで楽しませる演者、楽しむ聴き手がそろえば落語は桜同様に未来もずっと花開き続けることだろうよ」

プロフィール

京須 偕充(きょうす・ともみつ)
落語プロデューサー
1942年、東京生まれ。ソニー・ミュージック(旧CBS・ソニー)のプロデューサーとして、六代目三遊亭圓生の『圓生百席』や古今亭志ん朝の作品など、数多くの落語レコード、CDの制作を手がけてきた。
有楽町で開かれている『朝日名人会』に加え、06年4月に浜離宮朝日ホールを舞台に始まる『朝日いつかは名人会』をプロデュースする。
『落語博物誌』(弘文出版)、『落語名人会 夢の勢揃い』(文春新書)、『古典落語CDの名盤』(光文社新書)など、落語に関する著作も多い。

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