現在位置 : asahi.com > 文化芸能 > コラム > ラクゴロク > 記事 ここから本文エリア

ラクゴロク

「志ん生師匠のマスターテープ」 亀渕昭信

聞き手:西秀一郎
構成:小松照昌
2006年05月04日

 僕らの世代は人生に必要なたくさんのことをラジオから学びました。音楽、遊び、恋愛……。ライブドア騒動の最中、そんな僕らにとって恩人のひとりである渦中の人に僕らはエールを送りました「カメ、カメ、エブリバディ!」と。

写真

亀渕昭信さん

 あれから1年、あの喧騒がうそのような有楽町ニッポン放送に亀渕昭信氏を訪ね、お話をたっぷり聞いてきました。

――まず、ニッポン放送に入ったきっかけをお教えてください。

 僕が物心がついた頃には、僕の家には音楽が、特にアメリカのジャズとかポピュラーソングがあふれていました。叔母が宮美子という芸名で主に米軍キャンプを巡業するジャズ歌手をしたりしていた、そんな影響があったと思うけれど、いつも、なにかしら音楽が鳴っている、そんな家庭だったんです。だから僕も自然に音楽に触れて育ったんですが、小学5年生か6年生のころ、父が当時流行った映画「シェーン」のテーマ「遥かなる山の呼び声」"レス・ポール&メリー・フォード"の「ヴァイア・コン・ディオス」というレコードを買ってきてくれて、僕は何度も何度も聴きました。「音楽っていいなあ」と。今思えばこの2枚のレコードが、僕の原体験になったと思います。

 中学3年生ぐらいの時かな、FENからすごくかっこいい音楽……エルビス・プレスリー、チャック・ベリー、リトル・リチャード、バディー・ホリー、エヴァリー・ブラザーズなんかが流れてきて、「これは一体なんなんだ!?」って、僕はどんどんロックン・ロールにのめり込んでいきました。この頃から真剣に「音楽に関われる仕事」を進路として考えるようになりました。

 大学生になって、銀座のレコード屋に輸入盤の注文をしによく出かけました。今みたいにネットで音楽が買える時代なんかじゃなくて、輸入盤も届くのに何カ月も待つような時代ですから、そのお店でいつの間にか有名になったんです、「音楽が好きな奴がいるぞ」って。それで、そこのお店の方が「ニッポン放送で音楽番組の制作をしている高崎一郎さんがバイトを探しているんだけど、やってみないか?」って、僕を高崎さんに紹介してくれたのがきっかけで、高崎さんのアシスタントとしてニッポン放送にはいりました、アルバイトで。

 高崎さんについていた2年間は、放送番組の事、業界の事、いろいろ教えてもらいました。で、そろそろ大学も卒業という頃に、高崎さんから「お前、就職、どうすんだ?」って聞かれたので、僕は「別にアテはありません」って言ったら「じゃ、うち来るか?」っていう事になりました。アナウンサーしか採用しない年で、僕は、試験でスポーツの実況放送とかやらされて……、「号砲一発、各選チュ、一斉にス・ス・スタート……」とかもう大変。ホント下手くそでした。でも、何故か、合格でした。いま思うとインチキ試験でしたね、あれは。

――なるほど、それで例の騒動のとき、亀渕さんを元アナウンサーと紹介するメディアもあったわけですね。そんなしゃべりの苦手な亀渕さんが、どういう経緯で自らしゃべることになったのですか?

 僕は入社したその日から生番組のキューを振ってました。別に自慢じゃなくて、入社前に2年間も経験があったわけだから当たり前なんですね。会社にとっても即戦力というワケです。ところが、会社に入って3年ぐらい経った頃、なんだか仕事がつまらなりました。きっと、なにか新しいことに触れたかったんでしょうね。それで、FMラジオがアメリカで人気があるというので、会社に、まだ当時日本では電波が出ていないFMラジオの勉強をしに行きたいといったらOKが出て、1年間休職してアメリカはサンフランシスコへ行く事になりました。1966年の10月でした。ヒッピー、フラワー・チルドレンが街中にあふれている、いわゆる「花のサンフランシスコ」の時代です。サンフランシスコでは、放送の勉強をしながら、夜な夜なフィルモア・オーディトリアムとかのライブハウスにいろんなバンドを観に行きましたし、あの1967年のモンタレー・ポップも観に行きました。ジャニス・ジョップリン、ジミ・ヘンドリックス、ジム・モリスンや、イギリスのザ・フーやクリーム……。

――伝説のアーティストたちを目撃できたわけですね。

 とっても幸せな、とっても充実した1年間でした。日本に帰った1967年秋、同じ時に「オールナイト・ニッポン」が始まりました。ご承知のように、「オールナイト・ニッポン」のしゃべり手はみなニッポン放送の社員でした。高崎一郎さんも初代のパーソナリティーでしたし、糸居五郎さんも、斉藤アンコーさんもいました。それで、アメリカ帰りの僕に、上司が「こいつは本物の音楽を勉強してきたし、普段も結構面白いし、喋らせたらなんとかなるんじゃないの……」ということで、日曜日の夜に始まった「オールナイト・ニッポン電話リクエスト」という番組のパーソナリティーに起用されました。

――パーソナリティー時代っていうのはどのくらいでした?

 そんなに長くないのです。1969年から73年までの4年ぐらいなんです。"カメ&アンコー"のイメージが強く残っているから、結構長くやっているように思われているんですが、4年くらいしかやってないんです。カメ&アンコーもレコードを出したのがメインで、2人一緒にはおしゃべりしたことはないし……。「今度やろうね!」ってアンコーさんと話しています。

――オールナイト・ニッポンの鶴光師匠は、東京における関西弁の定着にとっても大きな役割を果たしたと思うのですが、パーソナリティーに起用したのは?

 鶴光師匠にお願いしたのは、僕がパーソナリティー職を終えて番組の制作チーフに戻った1974年です。東京では、関西弁なんて、絶対ダメと言われていました。でも「そやんけ……」とか「……でんねん」って、きっと東京の人にとっては新鮮な響きだよなって思っていました。それで、知り合いのラジオ大阪ディレクターのKさんに「コテコテではない、東京でも受けるホンワカした関西の芸人さん」を紹介してくださいってお願いしたんです。そうして紹介してもらったのが鶴光師匠でした。オーディションで師匠はあの「小咄(こばなし)、その一……」をやって、スタジオ中が爆笑の渦。ホントに面白くて……その場で、「ぜひご出演、お願いします」って言いました。

――さて、ようやく亀渕さんと落語の関係が出てきました。普段はどんな落語をお聴きになるのですか?

 鶴光師匠は上方のお囃子(ハメモノ)が入った落語をやっていたけど、僕はどちらかっていうと江戸前の落語の方が好きでした。僕の子供の頃は落語の黄金時代で、ラジオで毎日のように落語放送がありましたから、よく聴きました。先代の金馬師匠志ん生師匠円生師匠が好きでした。いまでは伝説と言われる人ばかりですね。僕は中でも特に志ん生師匠が好きでした。これは、あとでわかるのですけれど、志ん生師匠は、ニッポン放送の専属落語家でもあったんです。

 僕の落語の聴き方は、ラジオやレコードで聴いたりする方が多かったんですけれど、志ん生師匠の高座だけは何度か観に行きました。新宿とか人形町とかに観に行ったことを憶えています。それで、その志ん生師匠のイメージが忘れられなくて、僕は1990〜95年までポニーキャニオンの音楽制作担当役員をやっていたんですけれど、その在任中にニッポン放送が持っている志ん生師匠の実況テープに山藤章二先生のイラストを合わせるという「ラクゴニメ」を制作しました。

――あれは画期的でした!

 当時は、コンピューターのコの字も知らない、きっといまでも「そんなもの大嫌い……」とおっしゃりそうな山藤先生が非常にホントに細かく、毎回毎回違うもの作って下さって、着物とかも毎回替えて、所作もほんもの、キチッと作って下さって。大変感動しました。スタッフの仕事も素晴らしかった。

 これは誰にも言ったことがないんですけれど、去年ライブドアに乗っ取られちゃうとかなんとかの大騒ぎの時、ちょっとキザな言い方をすると、会社とグループ、そして社員のみんなの他に、どんなことがあっても大事にしたいものがあリました。それはニッポン放送地下2階にある出来たばかりの「イマジン・スタジオ」と志ん生師匠の原盤音源でした。「これって絶対大事にしたい」って強く思いました。もしこれが外資にでも売られたらどうしよう、志ん生師匠も外国人相手じゃ困るよな……なんてね。なんだか浮世絵の海外流失を守るみたいな感じで、このためにも命懸けで頑張るって、ホント強く思いました。

――騒動の最中、亀渕さんから電話やメールをいただいたり、斉藤アンコーさんからもお話をうかがったりしていて、お元気そうにお見受けしたのですが……

 実は結構大変でした。ストレスで眠れない夜もありました。でもそんな時は志ん生師匠を聴きながら眠りにつきました。志ん朝師匠も聴きました。夢の中で親子共演です。おかげさまでいまでもなんとか元気にやっています。

――まだまだ健在ですよ。またパーソナリティーをお願いします!

西 秀一郎(映像・音楽プロデューサー)
1963年、東京生まれ。塗装工、運送屋、調理師などを経て1989年東芝EMI(株)に入社。企画モノ、リイシュー、クラシック、落語など独自の世界を築く。米朝一門の担当として上方落語の普及に尽力し、プロデュースした「桂枝雀落語大全」(CD、ビデオ、DVD)は空前の大ヒットとなる。2000年に独立。(株)ディスクベリー・ドット・コム代表。
小松 照昌(放送作家・ライター・三弦奏者)
1967年、大阪生まれ。中学の時に桂枝雀の落語に出会い、枝雀師匠に弟子入りを志願するもかなわず、三味線を習い始める。その後、枝雀夫人のはからいで「枝雀落語大全」のスタッフに。現在は放送作家として活躍中。

PR情報


この記事の関連情報


ここから広告です
ここから広告です
広告終わり

マイタウン(地域情報)

∧このページのトップに戻る
asahi.comに掲載の記事・写真の無断転載を禁じます。すべての内容は日本の著作権法並びに国際条約により保護されています。 Copyright The Asahi Shimbun Company. All rights reserved. No reproduction or republication without written permission.