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ラクゴロク

聞き手:西秀一郎 構成:小松照昌

「フォークシンガーは落語家に似てる?」 なぎら健壱

2006年10月31日

 タレントとして、俳優として、作家として、最近では写真家として活躍するフォークシンガーのなぎら健壱さん。ファンの間から「まるで落語のようだ」と絶賛されるステージでのおしゃべりの秘密に迫ってみると、失われた日本の情緒を守るという精神がふつふつと燃えていたのです。(なぎら健壱さんのプロフィール)

写真なぎら健壱さん

 ――なぎらさんは1970年「中津川フォークジャンボリー」でデビューしますが、フォークシンガーにはいつ頃からなろうと思ったのですか?

 アタシが中学生のころにエレキブームというのがありまして、当時はエレキ=不良みたいなイメージがあったから、エレキ買うわけにいかないし(なに言われるかわからないからね)、それからアンプも買わなきゃいけないしね。そしたらやっぱり生ギターっていうことになるんですよ。当時はエレキサウンズを生ギターで弾いていたんですけれども、ある日フォークっていうのが出てきて、それで「あ、生ギターはこういう歌に合うんだな」と思ってポロポロ弾いてるうちに、大学生の間で流行り始めた、いわゆる「キャンパス・フォーク」がだんだんブームになりつつあって、こっちも多感な時期ですから、アメリカのフォークソングのコピーをやったりしたのがそもそもの始まりですね。(注:「日本フォーク私的大全」なぎら健壱著、ちくま文庫刊に詳しい)

 ――ファンの間では「落語のようなトーク」とよく言われていますが。

 そうなんですか……。 生まれは下町(木挽町、現在の銀座)ですから、親や近所のおじさんに寄席に連れて行かれたことはあったんですよ、何回かはね。だけど自分から寄席に行きたいっていうのはなかった。むしろ、フォークシンガーになろうと思い始めたころ、落語に興味を持ったんですよ。

 関西フォークの人たち、岡林信康さんにしても、高田渡さんにしても、西岡たかしさんにしても、みんなしゃべりが巧みなんですね。おもしろいんですよ。それを観てね、もしプロになることがあったら、もしステージに上ることがあったら自分もしゃべろうと思ったんですね。

 ある人がこう言ったんですよ。「なぎらは、客が100人いたとして99人帰ってもたった1人のために歌うか、あるいは100人を惹きつけるように歌うか、どっちだ?」って。アタシは100人を惹きつける方だって思ったんですよ。歌がダメでもおしゃべりで人をつかまえる技術があれば100人を惹きつけることができるって思ったんですよ。その頃ですね、勉強しようとか、話術を磨こうとかそういった構えたものではなく、なんとなく友達が持ってるレコードを聞いたり、テレビを観たりとか、ごく自然に落語にハマっていったんです。今考えてみると話の「間」とかは、その頃に身についたのかもしれませんね。

 ――「東京の江戸を遊ぶ」(なぎら健壱著、ちくま文庫刊)で「黄金餅」を歩いていますね。

 あれだけ江戸の町名が一気に出てくるっていう落語もありませんしね、それを検証してみたくなったっていうね……。

 ――現在の地名でいう上野から麻布まで、実際に桶を背負って歩かれています。

 さぁ、ひと一人を早桶に入れて、山崎町から麻布の木蓮寺までほんとに歩けるものかなっていう検証をしたんですね。それほど金兵衛には執念があったのかと。アタシは入れていませんけどね。これがね、実際に歩いてみるとわかった。いかに金というものが人を変えるか、真剣にさせるかっていうことがね。まあ、あのお話の命題はそこにあるんですけど。

 ――あれだけスプラッターなお話が、あれだけおかしく聞こえてくる話っていうのは滅多にないですよね。

 すごい話ですからね。残酷な話ですからね。あの世まで金を持っていこうっていう坊主もすごいですけど。

 ――さて、「悲惨な戦い」のレコードはライブ録音ですが、あれをなんでライブ録音にしたのか、僕はいつか聞いてみたかったんです。

 たまたまライブが収録されて……たまたまだったんですよ……。笑いは笑いを誘いますから、そういった意味でライブだったんじゃなかろうかと思います。でも、別に無理矢理笑わせてやろうっていうのはなかったんです。どちらかっていうと、しゃべりで笑わせて、シリアスなものを歌っていましたから。たしかに、堅い歌ばかり歌っていてもつまんない、どこかでホッとさせたいっていう気持ちがありました。息抜きがないとまじめな歌とかシリアスなものが生きてこないって思っていましたから。シリアスに笑いをつっこんでいくと、ぐっと生きてくるとわかっていましたから。

 それが落語に通ずるというのがだんだんとわかってきてね。だから落語を聞いていると例えば人情噺とかは、芝居からきたものですからなにも無理矢理笑わせなくていい話なんですが、演者はくすぐりを入れる。そこでお客さんがホッとする。ホッとしたと同時にその話の奥深いところが見えてくる。そういう風に考えると、シリアスな人情噺であっても、笑いっていうのが必要なんだなと思えるわけですね。

 ――なぎらさんの歌って、そういった意味では落語のような歌が結構あるなといつも思うんですよね。

 自分で狙おうとか意図しているものじゃなくて、言い換えればそれしか知らないから出ちゃうんじゃないかな。それを狙ってやったらいやらしくなっちゃうし、でも他のこと知らないからその光景を歌うしかないなっていうのが自分の中にあるから。

 ――フォークシンガーと落語家さんって似てるような気がするんですけど。

 高田渡さんなんかはやっぱり落語家の雰囲気持っていましたよね。志ん生の雰囲気持っていました。

 ――ある意味、落語家もフォークシンガーもステージで一人ですし……。孤独感を感じたことはありますか?

 ウケない時はものすごい孤独感ですね。自分で思ったような反応が出ないときは寂しいですね。そんなときはさらっと流すようにしています。「これは別にウケようと思ってやったわけじゃないよ」と。さらっと流して次のがそうだよと一瞬のうちに考えてる。そういえば、昔大阪に乗り込んだとき「大阪難しいよ」って言われていたんだけど、なに言っていやがんだと思って、ウケをねらって乗り込んだら全部カラまわり。それはもうひどい孤独感で。それからまた大阪に行った時、どうせウケないのなら構えることないやと、普段通りやったら、これが大ウケなんですよ。だから、構えてやった時っていうのは、逃げ場がないんですね。孤独感にどんどんさいなまれていくわけでしょ。さっき言ったように、これは違うの、次のやつっていうようにね。これは場数ですよ。

 ――「黄金餅」では山崎町から麻布木蓮寺までを流れるようにいうところがこの落語の見せ場でもあるんですが、東京の町名もだいぶ変わっています。失われつつある時代についてどう思いますか?

 なくなっても使ってやろうっていう気持はありますよね。「冗談じゃねぇ」という。

 だから、銀座4丁目じゃなくて尾張町って言ってやろうと。タクシーの運転手がわからなければ、教えてやらなきゃいけないっていう具合ですからね。

 ――今度写真集をお出しになりますね。

 消しちゃいけないっていう、忘れちゃいけないっていう風景をね。せめてここは残しておきたいなっていうのを集めているんですよ。なくなる風景にため息も出ませんけどね。

プロフィール

西 秀一郎(映像・音楽プロデューサー)
1963年、東京生まれ。塗装工、運送屋、調理師などを経て1989年東芝EMI(株)に入社。企画モノ、リイシュー、クラシック、落語など独自の世界を築く。米朝一門の担当として上方落語の普及に尽力し、プロデュースした「桂枝雀落語大全」(CD、ビデオ、DVD)は空前の大ヒットとなる。2000年に独立。(株)ディスクベリー・ドット・コム代表。
小松 照昌(放送作家・ライター・三弦奏者)
1967年、大阪生まれ。中学の時に桂枝雀の落語に出会い、枝雀師匠に弟子入りを志願するもかなわず、三味線を習い始める。その後、枝雀夫人のはからいで「枝雀落語大全」のスタッフに。現在は放送作家として活躍中。

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