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ラクゴロク

聞き手:西秀一郎 構成:小松照昌

「玄人はだしの『藤志楼(とうしろう)』」 高田文夫

2006年12月28日

 立川流真打ち「立川藤志楼」として、末廣亭10日間興行を大成功させるほど、もはや腕前は“とうしろう”ではありません。日本の演芸をこよなく愛する高田文夫さんをラジオの仕事場に訪ね、お話をうかがいました。

写真高田文夫さん

 (高田文夫さんのプロフィール)

――まずは落語との出会いは?

俺らの年代ってホントもう団塊の世代の真っただ中だから、子供の頃、小学校3年生ぐらいまでテレビなんか無くて、お茶の間の娯楽って言ったらラジオだけだったでしょ。ウチも朝からラジオつけっぱなしでね。それで、お袋が落語好きだったからさ、ラジオから流れてくる落語をしょっちゅう聞いてたわけ。まあ、そうすっと小学3年ぐらいで、もう金馬の落語「居酒屋」とか「孝行糖」とか自然に覚えちゃうわけよ。

それでもって小学校5年の時、昭和33年にね、初めてテレビというものが世の中に出て来た。「ALWAYS三丁目の夕日」じゃないけど、テレビっていうものを初めて見て、初めて落語を映像で見ることができた時、びっくりしちゃった。だってそこに映ってた落語家は、立ち上がって動き回ってたんだもの。それまでは子供心に何となく、「落語って、おじいちゃんが正座してしゃべってるもんだ」と思ってたからね。その落語家が、テレビの中で袴履いて走り回ってる姿を見て、「うわぁ、面白い」と思った。この人が、真打ちになったばかりの三平だったんだね。

すると早くもさぁ、「この人をどうしてもナマで見たい!」と思ってね。そしたら当時のクラスメートにいたんだよね、落語マニアが。ある日そいつが「新宿へ出れば『末廣亭』っていうのがあって、三平が見られるらしいぜ」って、2人で「末廣亭」目指してさぁ、伊勢丹あたりで「確かこの辺だな」とか言いながら探して、ようやくたどり着いたわけだ。今思えば、そん時からもう現場主義だったんだよなぁ。(笑)

生まれて初めての寄席だから木戸銭の払い方もわかんなくて、「子供2枚」とか言って汚い木戸を開けて、真っ昼間に子供2人で入ってったら、三平さんがちょうど高座やってて、「あぁ、ぼっちゃん、そこ座って」っていきなり言われてね。これがうれしくてさぁ。「あ、ぼっちゃん、そこへそこへ。ハァイ、今、月光仮面の話しますからねぇ。ハイ、ぼっちゃん」って。“うわぁ、すごいなぁ。本当に声かけてくれるんだ”と思ってさ。それでいっぺんに俺は三平のトリコになって、それまで以上に落語が好きになった。

 中学に入ってからも三平見たさに、時々寄席に行くようになった。そしたらさ、ただのじいさんだと思ってた人が、実は志ん生だったとかがわかるわけでしょう。そのうち「やっぱ円生はいいね」とか、「志ん生が……」とか、「やっぱり文楽だね」とか言うようになった。それにしても、志ん生とか文楽とかを、ナマで見られたわけだからホントによかったね。こうなるともう寄席通いが止められない。困ったもんだよな。(笑)

――落研にはいったのは?

 落研に入ったのは大学入ってから。高校ではバンドやったり、いろんなイベントなんかの司会やったりしてた。その頃から早くも俺は「軽いおしゃべりと歌」みたいな役どころだったね。で、高校卒業後は放送作家になろうと思ってたから、大学は日大芸術学部の放送学科に入った。青島幸男みたいになりたかったんだよね。その頃になると、談志、志ん朝、圓楽柳朝、っていういわゆる四天王の追っかけをしてた。その当時、談志師匠が紀伊国屋ホールでずーっとやっていた「談志ひとり会」ってのに毎回通ったり、柳朝と志ん朝がイイノホールでさ、「二朝会」ってやっていて、それにも通った。やっぱり談志と志ん朝がホントに格好良くってね、もう、追っかけた追っかけた。

――放送作家デビューのきっかけは?

大学4年の時に弟子入りみたいな形で、当時テレビでバリバリ活躍してた塚田茂について、そこで下積みというか使いっパシリ。(笑)小僧みたいに10年、ホントよく働いた。でも、それがあったからこそ、腕が上がったっていう感じはするけどね。その頃はお笑いなんてのは、テレビの世界ではランクがまだ低くてさぁ、歌手が一番偉かったんだ。仕方ないから歌手にコントやらせて、その台本を作ったりしてた。そのうちバラエティ番組なんかも作るようになって、そこで三波伸介さんというすごい方に出会うことができた。三波さんは古典芸能にとても造詣の深い方で、時代劇のコントの基本、刀を持ったときの所作の仕方とかを教わったり、あと落語についていっつも2人で話してて、ずいぶんかわいがってくれてね。そのうち三波さんの座付き作家みたいになって、番組をずーっとご一緒させてもらった。だからあの人にはたくさん教わったね。舞台のコントの見せ方とか、言い回しのおかしさとかいろいろね。

――ビートたけしさんと長い間オールナイトニッポンをやっていました。

俺が30を迎える頃、たけちゃんと出会ったんだ、それで作家と表現者の2人がコンビ組んでね、オールナイトニッポンをやることになった。結局丸10年続いたんだけど、ホントにすばらしい10年だったね。

あの人も下町の人だから、落語とか好きでね。オールナイトやってた時に、俺らが一番好きだった談志師匠の落語協会脱退騒ぎが起こったんだよ。あの時は談志師匠がバッシング受けてさ、で、談志師匠が立川流の家元になった時に「広く門戸を開く」って言ったんだよ。その時「あ、これは恩返しになる」と思って、たけちゃん連れて入門したんだ、第一号でね。

家元が立川藤志楼と名づけてくれた。こんなうまい素人はいないって“素人”を逆さにしてね。そんな感じで入ったんだけど、まさかその後、紀伊国屋ホールで10年間毎年独演会やることになるとはね。もう“藤志楼”じゃなくて”とうくろう”だよ。(笑)

――今年の春に開催した末廣亭10日間は大盛況でした。毎日ネタ替えたんですか?

毎日替えましたよ。うーん、楽しかったね。2階席も開けたんだけど、お客さん入れなくなって、6時半には札止めにしたぐらいだった。ちょうど同じ頃、偶然なんだけど、うまいこと同じ10日間、上野に三枝さんが来て、両方とも話題になってね。どっちもいっぱいになって。やっぱり同時多発的にこういった落語会やるってのは、落語の活性化にとてもいいと思うんだよね。

――「笑芸人」の編集長もお務めですが。

 そうですね。「落語ファンクラブVOL3」っての今作っててね。これは力作だよ。

――どんな内容になるんですか?

今度は、志ん朝師匠をプロがどうやって聞いてるか? ってことで、プロにねベストワンを選んでもらったのね。やっぱり素人の聞き方とまた違うでしょ。もう一度志ん朝を聞こうっていうテーマで、鶴瓶さんが選んだり、小朝が選んだり、志の輔が選んだり、プロはこうやって聞くっていうのをね。ほいで自分の好きな一席をね、やってもらおうかなぁと思って。1月24日に出ますから!! お楽しみに!!

プロフィール

西 秀一郎(映像・音楽プロデューサー)
1963年、東京生まれ。塗装工、運送屋、調理師などを経て1989年東芝EMI(株)に入社。企画モノ、リイシュー、クラシック、落語など独自の世界を築く。米朝一門の担当として上方落語の普及に尽力し、プロデュースした「桂枝雀落語大全」(CD、ビデオ、DVD)は空前の大ヒットとなる。2000年に独立。(株)ディスクベリー・ドット・コム代表。
小松 照昌(放送作家・ライター・三弦奏者)
1967年、大阪生まれ。中学の時に桂枝雀の落語に出会い、枝雀師匠に弟子入りを志願するもかなわず、三味線を習い始める。その後、枝雀夫人のはからいで「枝雀落語大全」のスタッフに。現在は放送作家として活躍中。

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