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ラクゴロク

聞き手:西秀一郎 構成:小松照昌

「見たこともない落語をバスで熱演」 山中秀樹

2007年02月28日

 硬いニュースを読んだかと思えば、やわらかいナレーションもこなす、フジテレビの局アナとして活躍すること4半世紀。自ら「職人の血が流れている」というほど、現場好きの精神を探ってみると、なるほどというか、やっぱりというか、話芸の求道者としての一面が見えてきました。

写真山中秀樹さん

 (山中秀樹さんのプロフィール)

――お生まれはどちらですか?

昭和33年、広島で生まれました。

――その頃の広島っていうのはどんな感じでしたか? 昭和33年というと東京タワーが完成し、長嶋さんが巨人軍に入団し……っていう、まさに映画「ALWAYS〜三丁目の夕日」ってとこですけれど。

 終戦からわずか13年ですから、まだまだ復興途中という感じでしたね。街角に傷痍軍人がたたずむなんて光景もちらほら見られましたし・・・毎年8月6日には黙祷をしていましたよ、母と並んでね。

――山中さんは落語がお好きで、相当見られるとお聞きしました。

 堀井(憲一郎)さんほどではないですけどね。去年から落語メモを付けています。僕は特に寄席よりはホール落語が好きで、先日の「いつかは名人会」にも行ったんですよ。

――ありがとうございます。談春さんがトリの回ですか?

はい。最近はほとんど追いかけています。

――落語との出会いについてお聞かせいただけますか?

子供のころに落語に接する機会というのはなかったですね。両親が落語好きっていうわけでもなく、家の中に落語のレコードもなかったし。ただねぇ不思議なのはね、小学校の4年生か5年生の遠足の時、バスの中でマイク持って落語をやったんですよ。「粗忽長屋」(そこつながや)を一生懸命覚えて。

――「粗忽長屋」、うまくいきましたか?

それが全然出来なかった。なんだかマイク持ってアガっちゃって、しどろもどろになっちゃった。思えば初めて人前でマイクを持って喋ったっていうのはその時なんですね。

――不思議ですねぇ。テレビやラジオで「粗忽長屋」を聞いたわけではないんですものね?

バスの中で隠し芸的なことをやらなければいけないっていう状況になって、子供なりに切羽詰って隠し芸の本というような物を買ってきたんですね。そこに「粗忽長屋」があったというわけで。珍しい現実ですよ、正直言って。誰それの「粗忽長屋」ではなく本に書いてある「粗忽長屋」をやろうと思うわけですから。

――もしかしたら「粗忽長屋」のおかげでアナウンサーになったのかもしれませんね。

そうかもしれませんね。小学校の卒業文集にアナウンサーになりたいって書いてあるんですよ。「宮田輝さんみたいになりたい」って。

――もし「粗忽長屋」じゃなくて「宿替え」だったらアナウンサーにならなかったかもしれませんね?

そうなんですよね。たぶん江戸弁に対するアレルギーというか抵抗感とかそういったものがなかったんでしょうね。逆に言うと抵抗感があったらアナウンサーを目指してないですよね。

――大学入学を機に上京するんですね?

はい。小学校からの夢は、中学でも高校でも変わらず、ずーっとアナウンサーでした。それでアナウンサーを多く輩出している早稲田を志望して念願のアナウンス研究会に入るんです。大学時代、落語はすっかり趣味の領域でしたね。圓生師匠が好きでよくテープで聞いてましたよ。そういえば圓生師匠がお亡くなりになった時に上野のパンダが同じ日に死んで、「パンダ死す、圓生も」って夕刊に載った。僕は非常に怒ったのを覚えてます。なんでパンダが先なんだと。

――フジテレビ入社は?

昭和56年の4月です。

――第一志望だったんですか?

ラジオとテレビがあるんで、TBSに入りたかったんです。

――アナウンサー冥利(みょうり)とは?

アナウンサー冥利というのは、やっぱりスポーツでも政治でも、その現場に立ち会えるということでしょうね。つまり、時代が動く時にその舞台の一番前にいて、何が起きているかつぶさに見て、それを自分の言葉で伝える。それがアナウンサーの使命であり、そして魅力でしょう。そういう意味ではいろんなニュースの現場やスポーツの現場に立ち会えたし、いわゆるバラエティーの旅番組などもやらせていただいた。幸せでしたよアナウンサーとしては。

――ところで、落語が仕事に生きるということはありますか?

昔は「アナウンサーになるんだったら落語を聞け」とか「話しの間(ま)を覚えなさいよ」って言われたんです。僕の場合は小学校のころから好きでしたけど、普段落語を意識するっていうのはなかったんです。でも今は落語が好きでよかったなあと思いますよ。先日、ラジオに出させてもらったんですが、僕はテレビ育ちだから、実はラジオでしゃべるのは初めてだったんです。でもね自然に会話のやり取りが落語みたいになってるんです。つまりマイクを真ん中にして、会話のやり取りを上下(かみしも)にふってるんです。だからそういう部分では落語を聞いていて良かったなと思いました。自分の体の中に馴染んでる部分があるんでしょうね、しゃべり手として。

――山中流の落語の楽しみ方を教えてください。

僕は出来るだけ生の落語を見るようにしています。とりあえず僕は今、生きている現役の噺家さんをライブで見ようと思っています。去年から行った日、時間、場所、噺家さん、演目は全部ノートに付けています。寄席は行きません、ほとんど99%ホールです。色川武大さんが「寄席は退屈を楽しむ所だ」っておっしゃっていますが、僕はまだ退屈を楽しむまでいかないので、できるだけ自分の好きな噺家さんの出るホール落語に行きます。

――さて、4半世紀勤めたフジテレビをやめてフリーになられました。ご自身で落語をやろうとは思いませんか?

全然思いません。立川流のBコースに誘われたことはありますが、僕にとって落語は趣味の世界でいいんです。遠足のバスの中でやった「粗忽長屋」が最初で最後です。

(後記:この原稿をまとめているとき、テレビに出演している山中さんを拝見しました。共演者にいじられたり、クワガタを鼻に挟まれたりしている山中さんに思わずエールを送ってしまいました)

プロフィール

西 秀一郎(映像・音楽プロデューサー)
1963年、東京生まれ。塗装工、運送屋、調理師などを経て1989年東芝EMI(株)に入社。企画モノ、リイシュー、クラシック、落語など独自の世界を築く。米朝一門の担当として上方落語の普及に尽力し、プロデュースした「桂枝雀落語大全」(CD、ビデオ、DVD)は空前の大ヒットとなる。2000年に独立。(株)ディスクベリー・ドット・コム代表。
小松 照昌(放送作家・ライター・三弦奏者)
1967年、大阪生まれ。中学の時に桂枝雀の落語に出会い、枝雀師匠に弟子入りを志願するもかなわず、三味線を習い始める。その後、枝雀夫人のはからいで「枝雀落語大全」のスタッフに。現在は放送作家として活躍中。

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