備前焼
金子賢治 東京国立近代美術館工芸課長
備前焼(びぜんやき)は現在の岡山県備前市伊部(いんべ)を中心とする地域で平安末期から製造されてきた無釉(むゆう)の焼締(やきしめ)陶器である。それ以前、この一帯では奈良時代から盛んに須恵器(すえき)生産が行われており、一時はその貢納(こうのう)国の中で備前国が最も生産量が多いこともあったほどである。その須恵器技術の継承から備前焼の歴史は始まるのである。
その歴史の第一期は須恵器技術を継承し還元焼成(かんげんしょうせい)によって灰青色(かいせいしょく)の碗や瓦などを製造した平安末から鎌倉初期。第二期は焼成温度がやや上がり黒灰色の碗、擂鉢(すりばち)、大甕(おおがめ)などを製造した鎌倉中期。第三期は鎌倉末から南北朝頃で、壺、擂鉢、大甕が製造された。『一遍上人絵伝(いつぺんしょうにんえでん)』(国宝、清浄光寺(しょうじょうこうじ)・歓喜光寺(かんきこうじ)蔵)巻四第三段にこの時期の備前福岡(現・瀬戸内市)の町の賑わいが活写され、店頭に備前焼や備前刀がならべられている様子が描かれているのは有名である。第四期は室町時代で、ほぼ全製品が酸化焼成の赤褐色を呈し、今でいう備前焼の姿が出来上がっていった。しかも出土遺跡も西日本を中心に三百か所を超え、各地に大量輸送するほどになっていたことがわかる。
第五期は古(こ)備前のピークである桃山時代である。第四期の隆盛を受け、散在していた窯(かま)を50メートルを超す南窯(みなみがま)・北窯・西窯の三つの大窯に集中し、一段と生産の合理化が行われた。そしてこの時期の最大の特徴は従来からの雑器に加えて茶陶(ちゃとう)生産(水指(みずさし)、花生(はないけ)、茶入(ちゃいれ))へと幅が広がったことである。これより先、室町時代に禅宗(ぜんしゅう)寺院から武家の書院へと進んだ茶の世界が侘茶(わびちゃ)へと到達し、いよいよ桃山時代に千利休(せんりきゆう)による侘茶全盛の時代となり、それに備前焼の土味(つちあじ)や多彩な窯変(ようへん)がぴたりと適合したのである。しかし江戸時代に入ると肥前(ひぜん)や京都の色絵(いろえ)や施釉(せゆう)の陶磁器に押され、「音無しの構え」ともいわれるほど急速に衰退してしまった。その再興は大正時代に活動を始め、「備前焼中興の祖」といわれた金重陶陽(かねしげ・とうよう)の登場を俟(ま)たねばならない。
2006年12月12日
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