三曲(さんきょく)とは箏(こと)、三味線、尺八の合奏をいうが、尺八が参加したのは明治以降である。それ以前は箏、三味線、胡弓(こきゅう)の合奏だった。
尺八はもともと禅宗の一派・普化宗(ふけしゅう)の法器(ほうき)で、尺八を吹くことを「吹禅(すいぜん)」といった。江戸時代には庶民が吹くのを禁じられ、庶民は「一節切(ひとよぎり)」という短い笛を吹いていたこともあった。しかし明治維新後に虚無僧(こむそう)条例が廃止され、尺八が普及し始めると、以前からあった琴古流(きんこりゅう)のほかに都山(とざん)流が生まれた。また、戦後に優れた作曲家や演奏家が輩出し、現代音楽に新しい可能性が示されると、外国人の愛好家も増え、尺八は世界的な楽器となった。
古くは、琵琶(びわ)が「ビワのコト」といわれたように、弦楽器はすべて「コト」と呼ばれた。たとえば箏曲(そうきょく)の「箏」は「ソウのコト」で、柱を立てて一弦一音が原則の弦楽器を指した。対して、柱を立てず勘所(かんどころ)を押さえて一弦多音の「琴」は「キンのコト」と称された。箏は江戸時代初めに八橋検校(やつはし・けんぎょう)(1614〜85)が調弦(ちょうげん)を整理して近世箏曲の基礎を固めるとその後も発展を続け、主流の生田(いくた)流のほか、江戸時代中頃には山田(やまだ)流が生まれた。
地歌(じうた)とは「土地の歌」の意である。関西では地歌、江戸では上方唄(かみがたうた)といったが、上方舞(まい)の地(じ)(伴奏)の歌だったという説もある。初めは細い三味線を使ったが、次第に太くなり、現在は義太夫(ぎだゆう)三味線に近い太棹(ふとざお)三味線もある。三味線は、日本に輸入されてから、検校たちが手を加えて整え、最初の芸術的音楽「三味線組歌(くみうた)」を創作した。演奏は一人で弾きながら歌うのが原則で、その演奏は江戸時代には盲人の専門職の一つとして、当道(とうどう)という組織で保護されていた。
地歌も箏曲も職業演奏家は盲人だった。初め地歌が、続いて箏曲が発達して三味線との合奏が始まった。すると箏曲と地歌は両方演奏できるのが当たり前になったため、地歌演奏家、箏曲演奏家という区別はつけられない。なお、地歌箏曲の分野ではふつう三味線を「三弦(さんげん)」と呼称する。