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「敵将」信長の墓、なぜ一等地に 子孫が移す? 高野山

2006年09月01日

 世界遺産の高野山(和歌山県高野町)には、織田信長の「墓所」とされる供養塔があり、全国から信長ファンが訪れる。ところが最近見つかった江戸後期の絵巻物によると、供養塔は本当はまったく別の場所にひっそりと立っていたらしい。そもそも信長は、高野山を攻めた憎き「敵将」だったはず。墓所の場所をめぐって何があったのか。

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「織田信長墓所」にある供養塔=和歌山県高野町の奥の院で

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織田信長の供養塔の場所が記された「高野山図巻」を広げる日野西真定さん=和歌山県高野町の奥の院で

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 巻物を見つけたのは、奥の院の守り役の僧侶で宗教民俗学者でもある日野西真定(ひのにし・しんじょう)さん(81)。今年1月、京都市の古美術店で買いつけた古絵図「高野山図巻」を調べていて、驚いた。

 長さ7メートル余りの図巻には、奥の院にある約500基の墓碑主の名前が記されている。その中で、今の墓所とはかけ離れた場所に「織田信長公」とあったからだ。

 日野西さんは雪解けを待ち、図巻にある現地に行ってみた。ほかの墓碑の場所からみて約2キロの参道の真ん中あたり。だが、うっそうとした杉木立の根元をいくら捜しても、それらしき供養塔や手がかりになりそうなものは見あたらなかった。

 現在の信長供養塔は、約700メートル離れた場所にある高さ2メートルほどの五輪塔。弘法大師信仰の聖地とされる「御廟(ごびょう)」にほど近い参道わきで、奥の院のいわば「一等地」だ。「織田信長墓所」と書かれた標識が立ち、ガイドブックにも載っている。

 高野町によると、信長の墓所の存在は、江戸時代の記録にはあったものの、明治以降の案内書には記載されず、人々から忘れ去られていた。それが1970年、現在の場所で「再発見」され話題になった経緯がある。

 しかし、信長は戦国時代、比叡山延暦寺の焼き打ちに続いて、僧兵をかかえた高野山に迫り、信仰を広める高野聖(こうやひじり)とよばれる人々を惨殺した人物だ。図巻の場所付近の墓地を管理する本王院の細川康裕(こうゆう)住職(69)のように、「昔は信長の墓なんてあるはずがないと言われていた。まして今のような目立つ場所に、なぜ建てられたのか」と疑問を呈する人もいる。

 だとすると――。

 高野山真言宗の前宗務総長で、現在の信長の墓所を管理する無量光院の土生川正道(はぶかわ・しょうどう)住職(74)は「もとは図巻の場所にあったものを、のちに子孫の方々が移したのではないか」と推理する。

 現在の供養塔には「天正十年六月二日」という本能寺の変の日付と戒名のわきに、「悉地院(しつじいん)」と彫られている。悉地院は信長の家臣の弟が住職を務めていた寺院。「当時の住職が信長の遺徳をしのんで、建てたのでしょう。山の人たちは喜ばなかったと思うが、むげにもできなかった」と土生川住職はみる。

 悉地院はその後、無量光院と合併。今の墓所一帯には信長以外にも織田家の墓が約20基ある。月日が過ぎ恨みが薄れて、宿敵の墓を一族と一緒のにぎやかな場所に移してあげたのではないか。

 山の「生き字引」といわれる地元の古美術商、山陰智也さん(82)に尋ねてみた。「信長とは仲が悪くても、僧侶や民衆はみな黙認していたんでしょう。高野山は昔から懐が深いんですな」

    ◇

 《高野山と奥の院》 高野山の中にある死者供養の霊場が奥の院。約2キロの参道わきに20万ともいわれる墓や供養塔が立つ。戦国武将の墓所をはじめ企業の供養塔や阪神大震災の慰霊碑などがある。「墓所」といっても、魂だけをまつる「供養塔」も多い。信長の供養塔も納骨はされていないとみられる。「信長の墓所」は全国各地にある。

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