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〈06回顧:1〉文芸 死者と生者、交歓する場の輝き

2006年12月23日17時06分

 川上弘美氏の『真鶴』は、夫に失踪(しっそう)された妻の物語である。日記に残された「真鶴」の二文字を手がかりに、妻はこの海辺の町をたびたび訪れる。夫の不在を胸の内で確認する時間とは別に、彼女には母と娘との穏やかな暮らしがあり恋人もいる。

写真川上弘美氏
写真多和田葉子氏

 「歩いていると、ついてくるものがあった」。小説はここから始まる。異界のものがすっと日常へ寄り添う気配は過去の作品でも見られたものだが、作者は新しい地点へと歩み出す。異界は記憶と結びついて日常にとどまる。句点を多用し短く息をつぐ特徴的な文章で、読者を導くだけでなく、時に立ち止まらせ立ち返らせる。作品空間にひととき閉じこめるようでもある。

 自在な文章を獲得し、そのうえでいったん壊して、さらに新しい文章をつくりあげる。そんな覚悟で、新境地の作品が生み出された。

 文章の濃密なねばり強さは、古井由吉氏の短編集『辻』(新潮社)にも感じられた。いくつもの道が交差する辻は、物語において運命の分かれ目を象徴するような場所だが、この作品では死者と生者が交歓する特別な場所として独特の輝きを放つ。

 ○「第三の土地」で新視角

 短編集『海に落とした名前』(新潮社)と長編『アメリカ 非道の大陸』(青土社)を出版した多和田葉子氏。ドイツ語と日本語、ふたつの言葉を往還しつつ自身の言葉をつくりあげてきたことで知られる多和田氏は、長編の舞台となったアメリカに近年、たびたび赴いているという。第三の土地が加わったことで、作品も新しい自由な視角を獲得している。

 小林信彦氏『うらなり』(文芸春秋)は、夏目漱石『坊っちゃん』の物語を、影の薄い脇役の英語教師の視点からたどり直した。物語を裏返しに仕立て直すアクロバティックな見事さに初めは目が奪われるものの、次第に平凡なひとりの男が生きた時代の物語が浮かび上がってくる。『坊っちゃん』が書かれて100年目に、「うらなり」の声を初めて聞く思いがした。

 金原ひとみ氏『オートフィクション』(集英社)も物語の結構を逆手にとってみせた作品だ。金原氏を思わせる若い女性作家リンが自伝風小説の執筆を依頼される。22歳、18歳、16歳、15歳とさかのぼっていくリンの物語は、まったく別々の顔をもつ人間の物語のようであり、逆にそれこそがひとりの人間を描くことだと思わされる。

 ○自身の投影仕組む意気

 文芸冬号に発表された綿矢りさ氏の「夢を与える」も強い印象を残した。若くして絶大な人気を得たのちスキャンダルで没落する10代のテレビタレント夕子は、あたかも17歳で作家デビューした綿矢氏自身の心情を投影したかのように読ませるが、おそらくそれは、フィクションの強度をつよめるためにあえて仕組んだことだ。この向こう意気がしたたかで頼もしい。

 柴崎友香氏『その街の今は』(新潮社)は面白い小説だった。大阪の街と、そこで暮らす平凡な若い男女の姿を、同じくらいの熱意を込めて、ていねいに描出する。保坂和志氏との対談で柴崎氏は「粗筋を書けない小説(略)、他の言葉では言えないような小説を書きたい」(新潮12月号)と語る。

 その保坂氏は小説論『小説の誕生』(新潮社)を敬愛する小島信夫氏にささげている。小島氏は長編小説の出版直後に倒れ、10月に亡くなった。遺作の『残光』(新潮社)は作家の周りの世界を取り込み、読んでいる読者の時間までも作品に吸収されていくかのような小説だった。

 7月末に亡くなった吉村昭氏の『死顔』には、どうしても氏自身の逝き方を重ねてしまう。病床で自らカテーテルポートを抜き逝ったことが、夫人の津村節子氏によって死後、明らかにされた。『百けん先生 月を踏む』(朝日新聞社)の久世光彦氏は、連載完結を目の前にしての突然の死だった。

 ○話題を集めた村上氏

 最後に、新作の発表はなかったが、今年は村上春樹氏についての話題が多い年だった。ふたつの海外文学賞を受け、世界中の翻訳者が集まって「世界は村上春樹をどう読むか」というシンポジウムも開かれた。

 「もっともたいせつな小説」という、フィッツジェラルドの『グレート・ギャツビー』の翻訳(中央公論新社)も出た。29歳のフィッツジェラルドの手になる作品を訳しながら「書き手の痛みみたいなものがよりよく見えるようになった」という村上氏が、次作でどのような変化を遂げるのか、今から楽しみだ。

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