現在位置:asahi.com>文化・芸能>文化>文化一般> 記事 真偽は?揺れる評価 山本勘助を記録した「甲陽軍鑑」2007年04月04日13時32分 NHKの大河ドラマ「風林火山」で大活躍の軍師・山本勘助。実は、歴史学者の間で長く架空の人物とされてきた。勘助の活躍を記録した唯一の同時代史料とされる『甲陽軍鑑』が、江戸時代に編集された偽書・虚構とみられてきたからだ。だが10年ほど前から、原本は戦国時代に書かれた可能性が強まり、評価は揺れ動いている。
■際物扱いのベストセラー 執筆は、思いとどまった方がいいのでは――。 『甲陽軍鑑』の勘助像を検証した『山本勘助』を昨年出版した山梨大講師の平山優さんは、研究者仲間たちから、そう言われた。「『軍鑑』は戦国史研究では、際物扱いされてきた。だから、その中で記述された信玄や勘助の体系的な研究すらありません」 『軍鑑』は、信玄と息子の勝頼を中心に、合戦の様子や武将の心構えなどを詳細に記録した、江戸時代の「ベストセラー」だ。『甲陽軍鑑入門』を昨年著した静岡大教授の小和田哲男さんは「『軍鑑』なしで、信玄の魅力的な活躍を語るのは難しい」と話す。 同書は、信玄の家臣、高坂弾正が残した記録を、江戸初期に甲州流軍学の祖、小幡景憲がまとめたとされる。だが明治時代に、歴史学の権威、田中義成・東京帝大教授が、出来事やその年月日に誤りが多く、小幡が様々な遺稿などをつなぎあわせて作りあげた可能性が強いとして、史書の価値はないと主張した。 それが定説となり、以後、「偽書」「虚構」として扱われるように。「『軍鑑』を使って、学術論文を書くのは難しくなった」と小和田教授はいう。 その結果、主に『軍鑑』に基づく出来事や人物の存在も疑われた。川中島合戦での信玄と上杉謙信の一騎打ちや、信玄が自らの死を隠し、諏訪湖に沈めるよう指示した遺言などだ。 人物でいえば、山本勘助がその代表だ。一眼で手足が不自由ながら優れた戦術家という特異なキャラクターだが、ほかに確かな同時代文書がなく、架空の人物とみる研究者が多かった。 1969年に、勘助の名が書かれた二つ目の同時代史料「市河(市川)文書」が発見され、実在の可能性は高まったが、怪しげな軍学の書という『軍鑑』への評価は変わらなかった(市河文書は6日から山梨県立博物館で初公開される)。 そんななか国語学者の酒井憲二さんが94年、『甲陽軍鑑大成』を刊行。現存する最古の写本を特定し、戦国時代特有の表現が使われていることを突き止めた。「戦国時代の日本語を、いわば言文一致で書き残した貴重な史料」と酒井さん。小幡景憲は原本を「正確に写し留めるのに心を砕いた」とも指摘。偽書説を否定した。 ただし、もともとが史書ではない『軍鑑』には、年代などに誤りがある。戦国史研究者の柴辻俊六さんは「確実性の高い別の史料の裏づけがなければ、参考資料にとどめるべきだろう」とみる。山梨大の平山さんは「まずは、内容の真偽をより分ける作業が必要だ」と話す。 ■「最も良質な資料」の声も 他方、明治以来の、権威や研究手法に縛られてきた歴史研究者の姿勢を問題視する声も現れ始めた。 急先鋒(きゅうせんぽう)は、立正大教授の黒田日出男さん。黒田さんも『軍鑑』に手を出すと研究者生命を失うと警告されてきた。だが最近、戦国の合戦を描いた屏風(びょうぶ)絵を研究する中で、当時の様子を知る最も良質な史料として『軍鑑』にたどりついた。 昨年、研究論文「『甲陽軍鑑』をめぐる研究史」と「桶狭間の戦いと『甲陽軍鑑』」を発表。その中で、戦国史研究者が『軍鑑』を「生殺し状態」にしてきたと指摘。同書への批判を再検証し、史料としての可能性を探っている。 例えば、虚構とされてきた長篠合戦での武田方の軍議を検討。研究者が虚構説の根拠としてきた古文書の方が、むしろ偽物である可能性を指摘した。 また、近年疑問視されることの多い、桶狭間の戦いにおける織田軍の奇襲についても、敗れた今川義元に近い武田氏側の史料として『軍鑑』に注目。今川勢が乱取り(略奪)のために散らばったのに紛れて、織田勢が近づいたという、「乱取状態急襲説」を示した。 黒田さんは、「史実との食い違いがあるからと批判せず、なぜ誤った記述がされたのかなど、史料としての性格を検証すれば、新鮮な視点での研究が生まれるだろう」と話している。 PR情報この記事の関連情報文化・芸能
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