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横山泰三さん、戦後の政治漫画に新風 鋭く近代的な描線

2007年06月11日11時55分

 39年にわたって本紙「社会戯評」を描き続けた横山泰三さんが10日、亡くなった。持ち味は鋭角的で近代的な描線と、生地の土佐仕込みの「ちゃり(こっけいな文句)を言う」感覚。戦後の風刺・政治漫画に新風を吹き込んだ。

 洋画家志望だった。16歳の時に漫画家で兄の故・隆一氏を頼って上京。洋画家の脇田和、猪熊弦一郎両氏らに師事するが、戦後、食べるために漫画を始め、いつのまにか本業となった。米国の漫画家スタインバーグに影響され、言葉で説明せず、絵で笑いを誘うスタイルを打ち出した。

 50年の単行本「泰三漫画」が出世作。無駄のない鋭い線は大胆でアメリカ的、その内容にはフランス的な教養がある――と評された。同年、雑誌「ホープ」に描いた風俗漫画「噂の皇居前広場」が、わいせつ画として警視庁に摘発され、話題になったこともあった。

 「社会戯評」の連載は54年2月から。最初は来日したモンローとディマジオが題材で、モンローに群がる人の輪に入ろうとした子どもに向かい、大人が「おまえはあっちだよ」とディマジオを指す――というものだった。

 泰三さん流の風刺は、頑固で骨っぽい「いごっそう」を生む、出身地の土佐に源があったようだ。「社会戯評」が終わる際、本紙にこう書いた。「土佐の人は『ちゃり』(こっけいな文句)という言葉をよく使った……ちゃりを言うじいさまの血を引いた孫が漫画家になったのではあるまいか。へそまがり、あまのじゃく者が政治のことをはすかいに見て、ちゃりを言い、半畳を入れる。それを絵にすると、政治漫画が生まれる」

 1万3561回を連載した「社会戯評」は、午前5時半に届く朝刊に目を通し、「朝飯前」に仕上げた。「外からは、わけなく出来るように見えるだろうが、本人にとっては勤め人が通勤ラッシュの電車にあえぐがごとく、ケント紙を前にしてアイデアの捻出(ねん・しゅつ)に苦しむわけで……とても自由職業人とは思い難い」と、人知れぬ苦労の一端を、本紙上で述懐したことがあった。

 洋画家として、およそ5年ごとに個展も開催。ピカソを敬愛した。

     ◇

 〈イラストレーター山藤章二さんの話〉 社会や風俗への観察眼と風刺精神がとても鋭く、若い頃の漫画雑誌に掲載されたひとコマ漫画では、筆鋒(ひっぽう)の鋭さで群を抜いていた。新聞では、鋭さや激しさを8割程度におさえ、ソフトで分かりやすい作品に仕上げていた。私にとっては美術学校の先輩。よく個展も訪れたが、晩年まで創作意欲は衰えず、刺激を受けました。

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