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種まく縄文人、痕跡続々 新しい研究法が後押し

2007年10月11日10時50分

 大豆に小豆、キビにヒエ――。これまで「狩猟採集社会」のイメージでとらえられてきた縄文時代の遺跡から最近、植物栽培が行われていた証拠と考えられる痕跡が次々と見つかっている。縄文時代観の修正につながりかねないこれらの発見。その背景には、新しい研究法の普及がある。

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長崎県大野原遺跡出土の大豆の圧痕の型(小畑弘己氏提供)

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 9月下旬に宮崎県椎葉村で開かれた、第4回九州古代種子研究会。これまで弥生時代からとされてきた大豆の栽培が1000年以上古い、縄文後期中頃までさかのぼるという、小畑弘己・熊本大准教授(考古学)らの研究が発表された。

 今回用いられたのは「レプリカ法」と呼ばれる研究手法だ。遺物の表面や内部に残された植物の種子などの跡を型にとって電子顕微鏡で観察し、種などを同定する。東京国際大の丑野(うしの)毅教授(考古学)によって、1979年に開発された。

 この方法の最大の利点は、「コンタミネーション」と呼ばれる後世の「混入」を防げることだろう。

 遺跡から種子などが出土しても、地面深くまで木の根が入り込んでいたり、アリが運んだりすることで、ずっと後の時代のものが古い時代の土の層から見つかる場合が少なくない。古代米と思って発表したら実は現代の米だった――という笑えない話もある。

 だが、土器などを作る過程でついた痕跡を調べるレプリカ法なら、その心配はなくなる。さらに「X線撮影などではわからない立体像を得ることもできる」と丑野教授は言う。

 九州では、福岡市教育委員会の山崎純男・専門調査員(考古学)がいち早くこの方法を導入。05年には、熊本県大矢遺跡出土の縄文中期の土器に、稲のもみの跡を見つけた。植物学者などから異論も出ているが、これが本当なら、日本列島の稲作の始まりは、約5000〜4000年前までさかのぼることになる。

 もう一つ、最近、成果をあげているのが、AMS(加速器質量分析計)を用いた放射性炭素年代測定法で直接、穀物などの年代を測るやり方だ。米一粒(約5ミリグラム)程度のわずかな試料でも測定が可能なため、後世の混入の有無なども簡単に判別できる。

 かつて一緒に出土した土器などから年代を推定した種子などについても、AMSで再調査が進んでいる。

 たとえば、国立歴史民俗博物館学術創成研究グループの宮田佳樹・支援研究員(同位体地球化学)らの研究チームが昨年、滋賀県竜ケ崎A遺跡出土の土器に付着していたキビと同定された雑穀を、分析会社パレオ・ラボの加速器で測定したところ、土器と同じ、約2800〜2550年前(縄文晩期末〜弥生早期)のものとわかった。西日本で最古のキビだという。

 また、宮田研究員らが、青森県富ノ沢(2)遺跡出土の炭化したヒエを東京大学タンデム加速器研究施設で測定したところ、約4900〜4600年前(縄文中期)という年代が出た。「この二つは、後世の混入ではないことが裏付けられた。今後もAMSと化学分析などを併用し、確実なデータを積み重ねていきたい」と話す。

 大豆やキビなどに加え、小畑准教授らは現在学会誌に投稿中の論文で、熊本県の上南部(かみなべ)遺跡、同石の本遺跡の縄文後期の土器片から、小豆と考えられるマメの痕跡を発見したことを明らかにしている。私たちが考えている以上に、縄文人たちが多様な植物の栽培にかかわっていたのは確かなようだ。

生活環境の再検証に弾み

 これらの発見によって、どんな「縄文人」の生活が見えるだろうか。

 阿部芳郎・明治大教授(考古学)は「興味深い発見だ。ただ、縄文人たちが植物栽培だけに依存していたとは考えにくく、狩猟や採集と並ぶ、当時の生業の一つだったとみるべきではないか」と推測する。

 一方、谷口康浩・国学院大准教授(考古学)は「最近の研究をみると、特に縄文時代の後期〜晩期に、植物栽培への傾斜が強まるようだ。当時、地球規模での寒冷化が進み、それまでの食糧獲得のあり方に支障が生じたのかもしれない」。

 また、高橋龍三郎・早稲田大教授(考古学)は「縄文時代後期は、祖先の祭祀(さいし)が始まるなど、社会構造が大きく変化した時期と考えられる。栽培植物の増加も、大きな社会変化の一環としてとらえるべきではないか」と指摘する。

 西本豊弘・国立歴史民俗博物館教授(環境考古学)は「これまで遺跡出土の植物遺存体に対する考古学者の認識は、かなり低かった。今後、遺跡の土などをていねいに水洗いすることによって、より古い時期の、多くの植物の痕跡が見つかると思う」と話している。

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