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バルチック艦隊司令長官の手紙 ロシアで発見

2007年10月25日10時57分

 日露戦争でバルチック艦隊を率いたロジェストウェンスキー中将が、決戦の場となる日本海へと向かう航海の中で記した手紙31通が遺族のもとで保管されていることが、山梨学院大のコンスタンチン・サルキソフ教授(政治学)らの調査・研究で明らかになった。自軍の状態を冷静に判断し、「この艦隊は滅亡する」などと本音が記されていた。状況判断のできない傲慢(ごうまん)な愚将と描かれてきた従来の提督像とは相当に隔たる内容だ。

 ロ中将を日本人に印象づけているのは司馬遼太郎氏の小説「坂の上の雲」だろう。成田龍一・日本女子大教授(日本近現代史)は「日露戦争は戦後歴史学の大きな弱点。人々が知りたい戦場の光景を伝えなかった。司馬さんの作品に相当する歴史書は見あたらない」と指摘する。

 戦争の行方を決めた歴史的海戦の責任者であるロ中将は陰の主役といった役回りで登場し、「あれは愚物だ」と司馬さんは描いた。

 「規律をよろこび、ボーイ長のような職業性格」で「よほど臆病(おくびょう)な人かもしれない。かれはこの大艦隊の司令長官であるには、その点でもっともふさわしくなかった」「日本艦隊をのこらず海底へたたき沈めるであろうとおもっていた。皇帝の官僚にふさわしいスマートさと、宮廷遊泳術によって海軍軍令部長にまでなったのである」とも書かれている。

 手紙はサンクトペテルブルクの妻に送ったもの。ロシア革命で遺族が国外に逃れた時も大切に持ち運び、現在は帰国し同地に住むひ孫が保管している。日露戦争100周年を記念して山梨学院大が04、05の両年にシンポジウムを開催。その準備の中で存在を知ったサルキソフさんがコピーの提供を受け読み進めてきた。

 1904年2月に戦争が始まると、ロ中将はほどなく司令長官に任命され、バルト海の艦隊を極東に回航する準備を始める。旅順艦隊と共同で日本海の制海権を握る計画だったが、8月の黄海海戦で旅順艦隊は壊滅。手紙は9月に出港準備中のバルト海の港で「我々を取り巻く状況は悪く、改善することができない。日本の動員状況は我々よりうまくいきそうだ」と書いたのに始まる。

 10月に出港。間もなく英国の漁船を、日本軍と間違えて攻撃する事件をひき起こす。「このような弱さをもつ艦隊の将来を、当てずっぽうで期待するのは難しい」と前途を悲観。

 艦隊はアフリカを回りインド洋を目指す。暑さは厳しく補給は困難で、「航海は日に日に重苦しさを増している」。マダガスカルで長期足止めにあうと「日本があらゆる準備をすることを可能にしている。不吉な運命がロシア艦隊を圧迫している」と不安を記した。

 日本が近づくと悲壮感は強まり、05年4月には「どうしても帰れる気がしない」と。そして5月の日本海海戦で艦隊は消滅した。

 「坂の上の雲」は将兵の手紙や回想を軸にロ中将の姿や艦隊内部の様子を描いた。ロ中将は回想録を残さず、この手紙はロシアでも公開されたことはない。

 「日本との戦争は冒険だとの意識がすべての手紙を貫いている」とサルキソフさんは分析する。「司馬さんがこの作品を書いたのは冷戦のさなかで、参考にできるロシア側の資料は限られていた。この手紙を見ても、そこに描かれたいくつかの固定観念は通用しないことが分かるでしょう」と語り、この手紙を軸にしてロシア側から見た日露戦争を一冊の本にまとめたいと計画している。

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