現在位置:asahi.com>文化・芸能>文化>文化一般> 記事 「場面反復」の実験的小説 筒井康隆氏 新作『ダンシング・ヴァニティ』2008年02月14日11時06分 作家筒井康隆氏が新作長編『ダンシング・ヴァニティ』(新潮社)で前代未聞の手法に取り組んでいる。ひとつの場面が何度も反復され、そのたびに少しずつストーリーがズレながら進行するのだ。ベテランにして、なおも実験的な作風を崩さない筒井氏に聞いた。 主人公の美術評論家は定説に異を唱える浮世絵論を発表してベストセラーとなり、娘とめいはコンビを組んでクラブの人気歌手となる。この一家の物語だが、時間はまっすぐ流れず、同じシーンを幾度も変奏しながら進んでゆく。 「交響曲にもジャズにもポップスにも繰り返しがあり、いいなと思ったメロディーが反復されると大きな充足感をもたらす。モダンダンスにも繰り返しがある。他の芸術ジャンルにはあるのに、小説には反復がない」と筒井氏は着想を語る。 「生を幾度も繰り返す、ゲーム的リアリズムの感覚です。過去に誰もやっていない手法に挑んでみました。新しいことにしか興味が持てない」 主人公は時空を超えて江戸時代や戦時中と往還する。早世した息子や亡父、コロス(劇の合唱隊)や歌舞伎の登場人物も“現実”に乱入し、小説の自由さを究めている。 「芝居ではよくある手なのに、小説ではなぜ使われないのか。コロスはギリシャ劇で終わらず、現代演劇でも応用されている。約束事を早くに取っ払った演劇から見て、小説は10年遅れている。自然主義リアリズムのせいです。僕はSFから出てきたから、リアリズムの限界がよくわかる。『文学の終わり』などと言われるけど、まだまだ書かれていないことがある」 ■終盤で帯びる現実味 パラレルワールドのような場面の反復は、人生の分岐点はいくつもあった、ということを想起させる。終盤に至って、すべては死を前にした主人公の回想なのではないか、と気付かされる時、物語はにわかに現実味を帯び、印象が覆る。 〈それらは本当にあったことなのか、本当にあったことにあと記憶をつけ加えたものなのか、あるいはすべて妄想によるまったく架空のことなのか、夢の中の出来事だったのか……くり返しそのものが実際にあったことなのかもしれない〉 「人間の記憶は、大事な部分が強調されたり、いやなことが省略されたり、回想するうちに歪曲(わいきょく)されていくもの。だけど失敗も含めて通過してきたことで現在の自分がある。どの道を通っても完成された死はない、と主人公は知るのです」 作中には〈白い顔のフクロウが……おれを見ている〉という描写が何度も異物のように挿入される。これが物語の最後で深い余韻を醸し出す。 「フクロウが何の象徴かは読者が考えてくれればいい。読者が立ち止まってくれるものとして織り込んだ。批評家が“象徴探し”の理論に囲い込もうとするのを突破するものでもあるんですよ、反復は」 PR情報 |