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石川啄木の朝日歌壇 常連は同僚記者

2008年03月19日10時50分

 明治末、石川啄木(1886〜1912)を初代選者に始まった朝日歌壇で、常連入選者だった「白面郎(はくめんろう)」の正体は、同僚の名物記者・松崎天民(てんみん)だった――。啄木本人説もあった謎の投稿歌人の素顔が、このほど出版された『啄木と朝日歌壇の周辺』(平原社)で解き明かされている。

写真松崎天民(山室勝之資さん提供)
写真白面郎入選歌掲載の啄木選歌欄
写真石川啄木
写真「なによりも啄木と天民の熱い友情を知ってうれしかった」と平野さん=東京都内で

 筆者は、東京の共立女子中学高校長でもある平野英雄さん(64)。30年来続ける近代史研究から派生した考察をまとめた。厳しい言論統制下にあった時代の青年群像に関心があり、「晩年、社会主義やアナーキズムに共鳴していった啄木が担当した歌壇の匿名投稿者に注目した」と語る。

 1909年、校正係として東京朝日新聞に入社した啄木が歌才をかわれ新設歌壇の選者に登用されたのは翌10年。9月15日の第1回以降、最終回の11年2月28日まで計82回掲載され、のべ235人による564首が紹介された。

 雅号のみの入選者は32人。うち掲載数ベスト3の小野愁蛾(しゅうが)(40首)、白水(35首)、白面郎(19首)については啄木の自作との説がこれまで有力だった。しかし、平野さんは当時の新聞を調べるうち、白面郎の署名がある連載「寄席印象記」を見つけた。内容から「少なくとも白面郎は啄木ではない」と直感した。

 朝日新聞社史に白面郎を名乗った記者は存在しない。だが「印象記」が折に触れ匂(にお)わす筆者の出自経歴が、松崎天民に重なることがわかった。

 天民は啄木と同年、東京朝日新聞に入社。社会ルポの先駆けともいえる探訪記事で人気を集めたほか、足尾銅山鉱毒事件や大逆事件なども手掛けた。後に実話読みもの作家としても活躍した。

 天民の生まれた岡山県落合町(現真庭市)の郷土史に、白面郎の名はなかったが、彼の業績として「寄席印象記」が挙げられていた。

 一方、白面郎の19首を詳細に調べたところ、例えば〈蛎殻町かのコーノスに或夜逢ひし吉井勇の若き顔かな〉が掲載された前に、天民がこの店を紹介した記事が見つかった。ほかにも自身の体験や境遇に重なる数首があった。また、自伝『記者懴悔(ざんげ)人間秘話』から「妙な口語体の歌を作つては、能(よ)く啄木にみて貰(もら)つて居た」ことも確認した。

 平野さんは「時間をしぼりだしては調べにゆく、そんな歩みでした。現在も進行中の研究もあるが、とりあえずかたちにすることができてほっとした」と話している。

 白面郎=啄木説は、歌人篠弘さん(74)がまとめた『近代短歌史』(74年、三一書房)で紹介されている。啄木が釧路新聞、小樽日報の詩歌壇選者時代、投稿がない時、自作で紙面を埋めていたことをふまえ、入選回数・語彙(ごい)・内容などから啄木本人の可能性があると指摘した。

 篠さんは「仮説の一角が崩れたわけだが、朗報」と話す。「特に、啄木の添削が明らかになった意味が大きい。自然主義文学の潮流の中で自分の歌風を掲げ指導者であろうとした、啄木の気概に感動します」

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