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写真というものからあふれでる写真 マリオ・ジャコメッリ展

2008年04月02日14時43分

 風景写真、スナップ、芸術写真。さまざまな写真があるが、マリオ・ジャコメッリ(1925〜2000)の写真に、決まった呼称を与えるのは難しい。どこまでも、えたいが知れないのだ。

写真  
写真©Giacomelli estates

 イタリア東海岸の小さな街に生まれ、生涯そこを動かず、印刷業を営み土日だけ写真を撮ったという。欧米での評価は高いが、日本での本格的紹介は、白黒約150点による今回が初めてらしい。

 で、分からないなりに作品を見ていくと、被写体が描く造形的な反復や呼応が重視されていることに気づく。連作「スカンノ」(57〜59年)からの1枚なら、相似形のように配された黒いシルエットの人々が目をひく。風景やホスピスの人々を撮っても、同じ傾向が見える。

 だがそれを強調するなら、モダニズム系のスタイリッシュな表現もある。ジャコメッリは、しかし極端にコントラストの強い、粒子の粗い画面を見せる。ときにブレたり、多重露光にしたり。「スカンノ」の1枚の中央に霊魂のように浮かぶ少年の姿は異様だが、作者の心象風景、いや自身なのでは、とも思わせる。

 極めて抽象的に見える瞬間があれば、悲しみを秘めた叙情性もたたえる。一方で、連作「若き司祭たち」(61〜63年)からの1枚では、舞う雪の中で踊る若い司祭たちが奇跡的なほど楽しげで、広がるマントの造形美に若さがあふれる。でも、やはりどこかはかない。

 写真は19世紀の誕生以来、瞬間を客観的に記録する力で席巻してきた。しかしジャコメッリはそこからあふれ出るものを表現しようとしたのではないか。心象であり、死に至る時間であり。彼の写真が「世界」や「人生」のどこかにつながる窓に見えるとき、心をわしづかみにされる。

 それでも全体はやはり、えたいが知れない。いや、簡単にえたいが知れるような写真を残さなかったことにこそ、すごみがある。(大西若人)

 ◇5月6日まで、東京都写真美術館。5月5日を除く月曜休館。

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