鎌倉大仏=神奈川県鎌倉市
時として多量の中国銭が出土する。7割以上は平安後期〜鎌倉半ばに相当する北宋・南宋のものだ=06年、福井市で
「美男におはす」とうたわれた鎌倉の大仏様は、中国からもたらされた銭(銅貨)で造られたらしいことが別府大(大分県別府市)のグループの研究で明らかになった。平安時代末の12世紀半ば、中国銭は貨幣ではなく、銅製品の原料として輸入されるようになったというのだ。
国家事業だった奈良の大仏と違い、民間主導の鎌倉の大仏は建立の過程でわからないことが多い。原料が何かは、その中でも大きななぞ。国産銅でまかなえた奈良大仏とは違い、鎌倉時代は銅が不足していたからだ。
手がかりは平安〜鎌倉期の銅製の経筒にあった。当時は末法思想が流行し、お経を筒に納めて地中に埋めた。同大の平尾良光教授(文化財科学)が全国各地で出土した50点を調査し、含まれる鉛の同位体比を測定した。この数値で原産地を特定することができ、1150年ごろを境に一斉に国産から中国華南産に切り替わったことがわかった。
平安時代の後期、日本は銅不足に悩んでいた。8世紀初めからは和同開珎など12種類の銅貨が発行されたが、時代を追って小型化し、銅の割合が下がり鉛が多くなった。枚数も減り、10世紀半ばには鋳造が止まる。当時の製錬技術に見合う銅資源が枯渇したためと考えられる。
飯沼賢司教授(日本史)は経筒の分布を調べた。まず11世紀後半に九州北部に現れる。銅産地があったらしい。近畿や関東にまで広まるのは12世紀半ばで、このころ原料が中国産に代わっている。
この時期、多量の銭が輸入されたことがわかっている。まとまった量の銅が手に入る方法はほかに見あたらない。経筒の原料は中国銭の可能性が強まったが、銭には「簡単にはつぶさないだろう」との先入観もあり、飯沼さんらは銭の流通状況をたどった。国産銭の発行が止まってから2世紀以上をへて、日本では12世紀末〜13世紀初めに中国銭の流通が急に本格化する。銭の輸入が始まってから数十年たった後だった。
「輸入当初、日本で銭は流通していなかった。銭はもともと銅製品の原料として輸入され、余った分がしだいに通貨として使われるようになった」との結論を導いた。
『経筒が語る中世の世界』(思文閣出版)としてまとめられたこの研究に、黒田明伸東京大教授(中国経済史)は「日本で銭の流通が突然始まる理由が分からなかったが、疑問が解けた」と納得する。
銭鋳造はコストが高く、中国は国外持ち出しを禁じてきた。12世紀の半ば、南宋では紙幣の流通が安定したので、銭を持ち出しやすくなったのだろうと黒田さんは背景を考える。
この輸入銭の研究が鎌倉大仏と結びついた。平尾さんは以前勤務した東京文化財研究所で鎌倉大仏とその周辺の遺物を分析していた。その結果もすべて中国華南産を示した。奈良大仏は鉛を1%程度しか含まないが、鎌倉大仏は10%以上で中国銭に近い組成ともわかっていた。
それでもすぐに「銭が材料」と結論づけなかったのは「調べたのは大仏のごく一部分」などの異論があったからだ。積み重ねた銅の分析と銭の研究をもとに、さらに研究を広げた。
「日本の交易船は銭ばかりほしがる」との中国の記録を見つけた。中国でも銅は不足し、インゴット(金属の塊)を輸入するのは銭以上に難しいこともわかった。大仏が造られた13世紀半ばには、銭は普及し一般の人々からも集めやすくなっていたこともわかってきた。
「銭を鋳造できないほど国産銅が不足していた平安末以降、多量に輸入できる銅としては中国銭のほかに見あたらない。科学分析も一致する。鎌倉大仏は中国銭で造ったとしか考えられない」と平尾さんと飯沼さんは結論づけた。
黒田さんも「国内で実は新しい銅山が見つかっていたという記録でもない限り、大仏は中国銭が材料と考えていいでしょう」と見ている。(渡辺延志)