「石井記録」(部分)
「伊能忠敬肖像」(青木勝次郎・画、部分)
江戸時代に日本列島を旅し、実測に基づいた初めての正確な日本地図を作った伊能忠敬(1745〜1818)。16年間、10次にわたって続けられた、その測量調査の実際の様子を伝える史料がこのほど見つかった。
因幡国芦崎村(現・鳥取市青谷町)で、金融業などを営んでいた石井家に伝わる「石井記録」。寛政8(1796)年ごろ〜明治6(1873)年にかけて同家の当主がつづった文書をまとめたものだが、その中で、4代目の世左衛門(1766〜1831)が、忠敬の測量隊が同村を訪れた時のことを記していた。伊能忠敬研究会顧問の佐久間達夫さんが確認した。
おもしろいのは、忠敬の人となりがうかがえる記述があることだ。たとえば、文化10(1813)年閏11月の項。伊能隊は中国地方などを巡る第8次測量調査の途中、芦崎村に立ち寄った。この時の夜、忠敬は鹿野町で星の観測を行ったのだが、「往来の事故、人通り繁く何となく騒しく候て、(略)御機嫌以の外に損じ、測量も其夕は漸十星ばかりにて相済(略)旅館に引取」とある。人通りが多く騒がしかったため、怒って観測を中断し旅館に帰ってしまったというのだ。
そこで、世左衛門が「上木綿半疋、上々美濃紙五束」を調えて進呈したところ、機嫌が直り、月の出を待って、わざわざ遠眼鏡(望遠鏡)で月を観察させてくれたという。
この石井記録について、伊能忠敬研究会名誉代表の渡辺一郎さんは「伊能隊が測量にきたという記録は他の地域にもあるが、細かいやりとりまで記されたものは珍しい」と評価する。
記録には、このほか、忠敬が世左衛門に、「今回の測量が終わって江戸に帰府した後は、測量方として一家をたてることになるかもしれないが、今まで通り、自由きままに天文測量をしていきたい」と語ったなどとある。しかし、「実際に一家を……といった話があったとは考えられない。忠敬がちょっと大きなことを言ってみせたのではないか」と渡辺さん。
新史料から浮かぶ忠敬像(当時60代)は、仕事熱心ではあるものの、怒りっぽく、座の勢いではちょっとしたほらも吹く自信家のおやじさん……と言ったところ。それが分かることも含め、貴重な史料と言えそうだ。
石井記録の概要は、同会会報の「伊能忠敬研究」52号に掲載される。(宮代栄一)