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東へ広がる青銅器 長野で九州製出土 流通網浮かぶ

2008年10月11日15時47分

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写真柳沢遺跡出土の銅戈と銅鐸。右端が九州製

写真九州大筑紫地区で出土した巴形銅器の鋳型

地図

 今から2千年以上前、北部九州では、全国に先駆けて弥生文化が花開いた。その象徴が豊富な青銅器群だ。近年、九州で製作された青銅器が、東日本など遠く離れた地域で出土する例が増えた。その跡をたどると、弥生時代の地域間交流や流通ネットワークの一端が浮き上がってくる。(中村俊介)

 大陸に近い北部九州の弥生文化は、朝鮮半島の影響を受けた剣や矛、戈(か)といった武器形青銅器に特徴づけられる。かつて、九州の「銅剣・銅矛文化圏」と近畿の「銅鐸(どうたく)文化圏」との対峙(たいじ)が唱えられたこともあった。だが近年、島根県の荒神谷遺跡で銅剣・矛と銅鐸が一緒に出土するなど、単純な構図ではないことがわかってきた。武器形青銅器は九州内で完結せず、広範囲で、各地に「輸出」されていたらしいのだ。

 今春、長野県北部、中野市の柳沢遺跡(弥生中期後半〜後期前半)で、九州製の銅戈1本が確認された。長さ34.4センチ、中細形C類と呼ばれ、弥生中期中ごろの製作とみられる。九州の銅戈の分布範囲は従来、広島から高知を結ぶライン以西に限られていたから、一気に東へ飛んだことになる。武器形青銅器全体でも最東端。大阪湾型の銅戈6本、銅鐸1個と一緒に埋められており、この組み合わせも初めてだ。

 銅戈はもともと中国の武器で、刃を棒の先に直角に付けたもの。朝鮮半島を経由して伝わった。九州では当初、実用品だったが、時期が下るにつれて巨大化し、象徴的な祭器に変化する。一方、近畿に登場した大阪湾型は九州の銅戈から派生したとされるが、逆に小型化し、ぺらぺらになる。施された文様も違う。

 これまで両者の分布が重なることはなかったから、柳沢遺跡での出土は「驚天動地だった」(長野県埋蔵文化財センターの綿田弘実・主任調査研究員)。吉田広・愛媛大准教授は「長野の勢力は北部九州とも近畿ともつながる両面性を持っていたのかもしれない」という。

 銅戈は、どのように伝わったのか。明治大の石川日出志教授は、日本海ルートを想定する。「近畿に九州の銅戈はないから、陸伝いとは考えにくい。日本海側に日常的な交易ルートがあって、リレー式に伝わったのでは」

 もっとも、大阪湾型銅戈が一緒に見つかったことは、陸路の可能性も示唆する。海路か陸路か、流入経路を絞り込むのは難しいが、西日本と東日本とのネットワークがおぼろげながら見えてはきた。

 弥生九州の青銅器文化圏の拡散は武器形青銅器のみではない。巴(ともえ)形銅器という、ヒトデのような形をした遺物がある。装飾品とされるが、放射状に出たカギに、霊魂を引き留める魔力や邪悪なものを払う呪力をみる説もある。

 かつて香川県の森広遺跡群で出土した巴形銅器が、九州大筑紫地区の敷地内で10年ほど前に発見された石製の鋳型と一致した。巴形銅器が、九州から四国へ海上を伝わったことが証明されたのだ。

 「各地の首長たちの手で伝えられたのだろう」と、この事実を発見した九州大埋蔵文化財調査室の田尻義了さん。ただ、両地域での使われ方が同じだったとは限らない。

 弥生の日本列島に、どんな交通網が張り巡らされていたか。九州発祥の青銅器は、古代流通ネットワークの解明に大きなヒントを与えてくれている。

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