C・ワンプラー「無題の彫刻」(08年)を、不思議そうに見つめる人たち=横浜市
西尾康之の巨大女性像で始まる韓国・釜山ビエンナーレのメーン会場(近代美術館)は、古典的なイエスとマリアの彫像「ピエタ」をサイボーグに演じさせたような立体や、豚頭人身の立体、血のりとエロスに彩られた写真、両性具有にして体の一部が動物になった人体の合成写真と続き、展示前半はさながら「身体のオンパレード」だ。
整形、ゲノムの解読に食品偽装やメラミン。一方で進む電脳化やスポーツへの熱狂。美術に限らず、現代の表現において「身体」は主要テーマであり続けている。釜山の企画チームの東谷隆司さんは「『浪費』という展覧会のテーマは、身体とかかわる暴力や自己犠牲の問題を含んでいる」と指摘する。
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日本勢も、加藤豪は腕や胴体の彫刻だし、森村泰昌はヒトラーに扮する映像の新バージョンで「歴史の身体」を思わせた。
なかでもスケールを感じさせたのが、繆暁春(ミャオ・シャオチュン)(中国)のCGアニメ「ミクロコスモス」(08年)。アダムとイブを思わせるリンゴに始まり、人類の進化と進化しすぎたかのような姿を裸の男たちに託して戯画的に描き、荘重な音楽にのせ一気に見せる。どこから見ても面白く、身体を巡る思索も感じさせる。
身体を巡る表現は、他の国際展でも見られる。シンガポール・ビエンナーレなら、坂茂設計の展示館内の暗い部屋で出あうA・マッコール(英国)の「光のカーテン」のような作品が忘れがたい。鑑賞者はその中で、自分の身体を再認識する。
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実は、五つの国際展のなかで正面から「身体性」を唱えたのが横浜トリエンナーレだ。テーマである時間性を実感させ、かつ他の国際展との違いを出せるものとして、身体によるパフォーマンスを重視したのだ。
しかし実演は開幕直後や週末が多く、平日では、そういう場面に出あうのはまれ。むしろ勅使川原三郎やM・アブラモビッチ(セルビア)の展示室はパフォーマンスの跡、つまり身体の不在を強く印象づける。
それだけではない。「新港ピア」会場では、たたき割った鏡(M・ピストレット)や円盤状の鏡によるモビール(C・ウィン・エバンスとT・グリッスル)があるが、映り込む鑑賞者の身体は分断されている。インドネシアのクスウィダナントが見せるのは、衣服や靴、楽器はそろっているのに中身の体がない鼓笛隊の立体作品だ。
「日本郵船海岸通倉庫」会場ではグロテスクな身体表現よりも、C・ワンプラー(米国)の「無題の彫刻」(08年)が印象に残る。展示室には、何も置かれていない台座に向かって、一生懸命スケッチする人がいる。「何か見えているのか?」と目を凝らすと、人体彫刻らしきものの影がうっすらと壁に落ちているのだ。この不在感。
横浜の水沢勉・総合ディレクターは「予想される身体からのズレ。そのズレの意識がどれぐらい冴(さ)えているかが、作品のポイント」と語る。
「身体の不在」が際だつ横浜トリエンナーレ。それは、無菌室のように清潔で、携帯電話が特異な発展をとげる、開催地の日本社会が呼び寄せたものなのだろうか。(大西若人)