立原正秋
「自由朝鮮」49年2月号に掲載された金胤奎の「ある父子」(川崎賢子さん提供)
『白い●粟(けし、●は貝二つの下に缶)』や『冬の旅』などの小説で知られる直木賞作家立原正秋(1926〜80)が、本格的に作家活動をする前の49年に民族名の金胤奎(キム・イュンキュウ)で小説を雑誌に発表していたことがわかった。48年に立原の筆名で詩を発表していたことも判明、作家としての美意識を確立する前の試行錯誤や民族意識の揺らぎがうかがえる。
米国メリーランド大の「プランゲ文庫」をデータベース化している研究者の一人、早稲田大学非常勤講師の川崎賢子さんが調査した。同文庫は連合国軍総司令部(GHQ)が検閲のため集めた日本の出版物を所蔵している。
通名の〈金井正秋〉で46年8月の「たきつけ」創刊号に小説「木犀(もくせい)の匂(にお)ふ頃」(未完)、12月の第2号にエッセー「たきつけ」(断片)、〈立原正秋〉で「詩誌二十世代」48年12月号に詩「売買」、詩誌「原始林」49年7月号に詩「扉」、〈金胤奎〉で49年の「自由朝鮮」2月号に小説「ある父子」の5編が確認された。
立原正秋の筆名で活字になったのは、51年の雑誌「文学者」掲載の「晩夏――或は別れの曲」が最初の小説とされていた。だが今回の調査で48年にはすでに立原名で詩を、49年には民族名で小説を発表していたことがわかった。
これらの発表時期、在日韓国朝鮮人は帰国するのか残るのか、いずれにせよ北か南かを選ばざるを得ない岐路にあった。立原にとっては「詩か散文か、立原か金かという分かれ目の時期だったのだろう」と川崎さんは見る。
中編小説「ある父子」は、日本の支配下にあった立原の生まれ故郷(慶尚北道)を舞台に、父の病に困窮する朝鮮人少年の視点で虐げられた側の貧困と悲哀を描く。日朝混血の少年の孤独を描いた75年の自伝的小説「冬のかたみに」と視点は違うが、舞台は同じで、設定をずらしながら登場人物の名前や身体の特徴など共通点する点が多い。
立原は世阿弥に傾倒、能など中世の美を文化の粋とし、それを失っていく高度成長期の日本社会を批判した。両親とも日韓混血としていたが、2人は朝鮮人で、晩年には自らの民族名を金胤奎と明かしていたともいう。経歴も含め、作家立原正秋のイメージを自ら形成していくなかで封印された〈金胤奎〉の作品が、後の自伝的作品と合わせ鏡の状態にあることは興味深い。
川崎さんは「この立原の振幅は、日本と韓国という二項対立ではなく、多文化、多言語性など外側から大きく位置づけることが可能になっている。今なら、文化と歴史のハイブリッドな表象ととらえられる」という。
プランゲ文庫の研究は山本武利早稲田大教授が中心となり、分類精選した資料を『占領期雑誌資料大系』(岩波書店)として刊行中。「大衆文化編」に続いて、来秋「文学編」の刊行が始まり、「ある父子」も収録する方針で編集が進んでいる。(吉村千彰)