
聖徳太子に始まり、奈良の都へと至る古代日本の国づくり。そのプロセスが、韓国・扶余での発掘調査を通し見えてきた。扶余は飛鳥時代に日本が親しい関係にあった百済の都。中国で生まれた律令制度が百済経由で日本に伝わった可能性や飛鳥仏教の源流をめぐり、新しい歴史像が浮かび上がってきた。
■律令制度 中国→百済→日本?
表に3行60文字、裏に2行57文字が読めた。扶余で4月に出土した長さ約30センチの木簡を、国立歴史民俗博物館の平川南館長らは、さほどかからず出挙(すいこ)の記録と判断した。618年、日本では律令体制がまだ整う前、聖徳太子の時代のものと分かった。
作付け時に稲の種もみを農民に貸し、収穫時に利子をつけ回収するのが出挙。同様の貸借はどの農業社会にもあったと考えられるが、奈良―平安期の日本の律令制度では国の財政の柱に組み込まれた。税として集めた稲を運用し、地方役所の運営や寺院の造営など幅広い社会活動がその利子に依存していた。中国の律令には見あたらない財政運用の仕組みで、日本独自の制度とされてきた。
木簡には多数の名前と数字が記されていた。貸し出した稲の回収状況の記録だった。一緒に出土した木簡には「外椋部」の文字があった。日本の大蔵省に相当した役所だ。
発見場所の少し上は役所地区で、一帯には税を納める倉があったはずだと、発掘した百済文化財研究院の朴泰祐研究室長は推測する。
「国庫に納められた稲を運用した出挙の記録だ」と平川さんらは判断した。書式も日本の出挙木簡と共通していた。利子も日本と同じ5割だった。
「仕組みも記録の仕方も同一だ。財政制度としての出挙は百済からやってきたことを示している」。早稲田大の李成市教授は、そう考える。
出挙にとどまらない手がかりを木簡はもたらした。出土した中に紙の巻物につけたタイトルである題籤軸(だいせんじく)が1点含まれていた。記された2文字を平川さんは「与帳」と判読した。出挙木簡にも「与(あたえる)」の文字があり、前後の脈絡から「回収を求めない分」の意味と平川さんは解釈した。
律令体制は文字による政治の仕組みだ。中国では律令行政文書に紙を用いたのに対して、日本と朝鮮では木簡と紙を併用した。正倉院文書と木簡の研究から、個々の出挙の貸し付け・回収などは木簡で行うが、貸した相手が死亡した場合に免除するなど減収の場合は、人名や理由を一覧にして紙で報告したことが分かっている。
題籤軸は紙の文書が存在したことを意味し、「与帳」は出挙で貸し出したが回収を求めない相手とその理由を記したリストの巻物だろうと平川さんは見る。「木簡と紙をどう使い分けるのか。古代日本と百済は同一だった可能性が高い。出挙だけでなく、行政システムそのものが百済からやってきたのではないか」
中国をモデルにした日本の律令制度だが、いたるところで中国とは違う。例えば行政の最小単位。日本では50戸だが、中国では100戸。その違いは日本の独自色なのか、朝鮮諸国の影響なのか。遣唐使によりもたらされたとのイメージが強いが、導入の具体的過程は分からなかった。
百済の関与を考えるにも、百済の行政の仕組みそのものがよく分からなかった。「外椋部」という役所は、中国・北朝の史書に記載があるだけで、今回実在が初めて確認された。
韓国での木簡研究はまだ日が浅い。国立扶余博物館学芸員の李鎔賢さんの調べでは、発見された木簡は全国で500点ほどで、多くは荷物を送るときの荷札。百済での発見は今回も含め60点余。約20万点確認されている日本での研究に触発され、学会が昨年、発足したばかりだ。
扶余での考古学調査は、国立扶余文化財研究所が中心になり進められているが、王宮エリアが中心。一般の地域は開発計画があれば調査する。今回は倉庫建設のためで30メートル四方ほどの発掘だった。
扶余ではどのぐらいの調査が終わっているのだろう。朴室長に尋ねると、答えは「0.01%でしょう」。古代史の謎に迫る手がかりが、この古都の地中に眠っているはずだ。そんな期待がふくらんでゆく。(渡辺延志)