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はじめてC席で帰った日 芥川賞を受賞して 津村記久子

2009年1月22日11時46分

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 「ポトスライムの舟」で第140回芥川賞に選ばれた津村記久子さん(30)に受賞エッセーを寄稿してもらった。大阪市在住の津村さんは選考会当日、東京で待機し、記者会見などをこなして帰宅した。

    ◇

 大阪に帰ってきたのだった。これほど、東京から帰ってきてほっとしたことはない。辛(つら)かったというわけではけっしてないのだけど、わたしはとにかく、記者会見などの華やかなことと縁がないので、人と人との間をうろうろしながら、何をしているのかわからなくなることがよくあった。そんな受賞後の二日間だった。

 帰りの新幹線の中でうとうとしながら、せっかく早い時間に帰るのに、景色を見ないのは残念だ、とぼんやり考えていた。いつもは、打ち合わせなどの関係で、帰りは午後八時台になり、窓には電車の中の景色しか映らず、つまらない思いをしている。それが、三時台の電車に乗ったので、これは思う存分沿線を見られるぞ、と期待していたのだが、すっかり眠くなってしまった。

 どうしても景色を見たかったことにはわけがある。席が初めて座るC席だったからだ。いつもは、みどりの窓口で、新幹線の二つ並んでいるほうの席の通路側であるD席を予約するのだが、今回は急いでいて、みどりの券売機でチケットを取った。みどりの券売機では、窓側か通路側しか席が選べないので、通路側と指定しても、いつものD席になるのか、三つ並んでいるほうの席の通路側であるC席になるのか、券が出てくるまでわからない。通路側を取るのは、落ち着きがないので席からよく離れるからだ。

 眠気を振り払いながら、窓の外を見ると、どこか見覚えのある東京の車窓の風景ではなく、全く見覚えのない建物が通り過ぎてくので、なんでかと一瞬身を乗り出し、目を奪われ、そしてしばし考えた。何のことはない、いつも見ているE席とは反対側の窓を見ていたので、見たことのないものがたくさん見えたのだった。わたしは、そうか、C席だからか、これはしっかり見なければ、とシートにもたれながら、不覚にもそのまま眠りこけてしまった。

 気がついたら京都に到着していて、わたしは、思ったより早く馴染(なじ)みのある場所に電車が着いたことを喜びつつも、ぼんやり落胆していた。あー、あとちょっとで大阪か、と項垂(うなだ)れつつ、しかし、あっ、あんなところに旅行ガイドで有名な「昭文社」がっ、と前かがみになり、まもなく新大阪に到着した。

 新大阪からJRに乗り、大阪駅で降りて、梅田駅に向かった。飲みものを買いに、よく行く大阪駅前第一ビルのドラッグストアに入ると、ちょっと荷物が多い会社帰りのような気分になった。おなかはすいていなかったけれど、ごはんを食べないとあとでしんどいことになるのはわかっていたので、前をよく通るけれども一度も寄ったことのないほっかほっか弁当に寄って、とり肉弁当を頼んだ。高校生の時に週に一回は食べていたが、もう何年も食べていない。

 家に帰って食べたとり肉弁当はおいしかった。こんなおいしいものを長いこと食べなかったのはもったいないなあ、と少し悔しくなった。今度上京する時はC席を取って、まだ見たことのない景色をじっくり見ようと思った。

 〈つむら・きくこ〉 78年大阪府生まれ。大谷大卒。大阪市在住。05年、「マンイーター」(『君は永遠にそいつらより若い』と改題して刊行)で太宰治賞。08年、『ミュージック・ブレス・ユー!!』で野間文芸新人賞。芥川賞受賞作『ポトスライムの舟』は2月上旬、講談社から刊行予定。

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