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「神雄寺」誰が何のために造営? 京都・馬場南遺跡の謎(1/2ページ)

2009年2月12日10時55分

 京都府木津川市の馬場南遺跡で確認された奈良時代(8世紀中ごろ)の寺院の跡に、研究者が注目している。造りが神社建築のようで、四天王の塑像(土製の像)や、仏教で世界の中心とされる「須弥山(しゅみせん)」の形の三彩陶器が置かれたこの寺は、「神雄寺(かみおでら)」という名だったと推定されるが、「続日本紀」などの文献には登場しない。いったい誰が何のために造ったのか。

 馬場南遺跡では約80点の墨書土器が出土し、その中に「神雄寺」「神尾」と書かれた土器があった。京都府埋蔵文化財調査研究センターと木津川市教委の調査で、ほぼ正方形の仏堂(本堂)には床いっぱいに須弥壇(しゅみだん)が築かれていたことが分かった。南の一段低い場所に仏事の場となる礼堂(らいどう)が立ち、仏堂のひさしは、神社建築の「流れ造り」のように礼堂まで延びる構造だったらしい。

 神雄寺の名は、当時の歴史を記した「続日本紀」などの文献に見あたらない。ヒントになりそうなのが、馬場南遺跡で8千枚以上も出土した、灯心と油を入れて火をともす「灯明皿」だ。

 続日本紀は、天平16(744)年12月、聖武天皇が金鐘(こんしゅ)寺と朱雀大路に1万杯の灯明を燃やしたと伝える。多くの火をささげて国家安泰を祈る「燃灯(ねんとう)供養」とみられる。

 金鐘寺は、東大寺の前身。朱雀大路は天皇の宮から南へ延びる大通りで、同年2月に遷都した難波宮(なにわのみや)(今の大阪市)のものと解釈するのが一般的だ。だがこの時期、聖武天皇は平城京(同奈良市)から恭仁京(同木津川市)、難波宮、紫香楽宮(同滋賀県甲賀市)と、転々とした。

 千田稔・国際日本文化研究センター名誉教授(歴史地理学)は「燃灯供養をしたのは、直前まで都があった恭仁京の朱雀大路では」と考える。恭仁京も短命で、ナゾが多いのだが、ある復元案に従うと、その右京(都の西側)の南端に、神雄寺を含む馬場南遺跡があったことになる。

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