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世界遺産・殷墟は都だったのか 近くに王城跡、疑問招く

2011年3月16日10時13分

写真:中国考古学の原点ともされる殷墟遺跡。後ろの建物は「宮殿」と考え復元された=塩沢裕仁さん提供拡大中国考古学の原点ともされる殷墟遺跡。後ろの建物は「宮殿」と考え復元された=塩沢裕仁さん提供

地図:殷墟の中心部拡大殷墟の中心部

 殷墟(いんきょ)は中国を代表する遺跡の一つ。河南省安陽市の郊外にあり、殷(商)王朝後期の都と考えられ世界遺産にもなっている。だが、近年の発掘調査によって基本的性格が問われている。「本当に殷の都の中心なのか」。そんな疑問の声があがっているのだ。

 「状況が変わったのです」と殷墟の見直しを提唱する東京大名誉教授の松丸道雄さん(中国古代史)は説明する。

 殷墟は紀元前1300年ごろ第19代の王・盤庚(ばんこう)が都を移し、第30代の紂王の時に滅びるまで約270年間の王都とされてきた。1920年代に始まった調査で多量に出土した甲骨に記された文字が大きな根拠だった。

 北と東を川が流れ、1980年代には西と南に大きな溝を確認。川と溝で囲まれた地域は南北1100メートル、東西650メートルで、約70万平方メートル。都の中心部分とされてきた。

 ところが川の対岸でさらに古い王城が出現した。●北商城で、2000年に発見された。昨年出た報告書によると広い中庭を持つ施設が二つ確認された。城壁もあり、その内側は約400万平方メートル。時期としては12代王と19代王の2説あるが、いずれにしても殷墟に先立つ王城跡だ。

 河南省の鄭州では殷王朝前期の都が1950年代に発見され、城壁の内側の広さが315万平方メートルにのぼることもわかっていた。

 殷墟は規模が小さいうえ、城壁も王城にふさわしい建物も見あたらないと松丸さんは指摘する。「王城の具体的な姿が●北商城の出現で初めて見えた。広い中庭を持つ施設は『朝廷』そのもので、その施設が見あたらないとすれば王が住んで政治をした王城ではありえない」。殷墟は王室の宗教空間にすぎず、多量の甲骨は運んできて埋めたもので、王が政治を行った王城は別の場所にあり、安陽の市街地の下に眠っているのだろうと松丸さんは推測する。

 東京大の大貫静夫教授(考古学)は「殷墟遺跡を都だと考えるのは、ほかに都の候補が見あたらないという消極的な理由によるもので、積極的にそうだと考えている研究者はほとんどいないのでは。王都だとする根拠が乏しいことを直視して、見直しを迫る松丸さんの問題提起はとても重要だ」と語る。

 現地の事情に詳しい洛陽師範学院客員教授の塩沢裕仁さん(歴史地理学)は「疑問を持っている研究者はいても、中国で殷墟は特別な遺跡なので公には語りにくい雰囲気がある。発掘して王城を発見するしか決着はないだろう」とみる。「可能性があるとすれば安陽市街の南西一帯。ほとんど調査されていない空白地帯だ」という。(渡辺延志)

(●はさんずいに亘)

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