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2011年11月11日11時45分
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〈時の回廊〉石牟礼道子「苦海浄土」 水俣病患者の魂、代弁

写真:石牟礼道子拡大石牟礼道子

 石牟礼道子は水俣病という近代文明の受難と向きあう。『苦海(くかい)浄土』は1969年に第1部「苦海浄土」が、74年に第3部「天の魚」が刊行され、04年に第2部「神々の村」で完結した。記録文学ではなく、患者たちの言葉を自らの言葉として語りなおした私(わたくし)小説だ。熊本市内の病院でパーキンソン病と闘いながら創作をつづけ、東日本大震災の当日84歳になった。

 水俣病のことは猫の異変で知りました。私の家は猫が好きで、子猫が生まれると、祖父は漁師さんにさしあげました。でも片っ端から死んでしまうというのです。狂ったように逆立ちし、鼻で地面の上をギリギリ回るから、鼻先がちょろっぱげになって。

 最初に偶然立ち寄った患者さんの家では、おじいさんが庭で孫の子守をしており、「寄ってゆかんかい」と声をかけられて、縁側で漁の話を聞きました。私は通称とんとん村に住んでいたので、とんとんの姉さんと呼ばれ、仲良くなりました。若夫婦がすでに水俣病で入院していたのに、おじいさんはその後も病気の話は一切しません。

 実際に患者さんの話を聞きにいったのはわずかなのです。『苦海浄土』に「ゆき女きき書」という章がありますが、聞き書きではありません。ましてノートやテープレコーダーを持ってゆくなんて。患者さんが口にしたくてもできないことを私が言葉にしてさしあげたのです。広告の裏などに書きつけたものが、評論家の渡辺京二さんの目にとまり、発表にいたりました。

 あのころは詩を書くのが好きな普通の主婦でした。女が朝から新聞を読んだり、ものを書いたりしていると、あそこの嫁はけしからんと、何か道徳に反するかのような時代でしたよ。

 『苦海浄土』に出てくる患者さんはほとんど亡くなられたんじゃないでしょうか。胎児性水俣病のみなさんも50代です。水俣病でいちばんつらかったのは、人とのきずなが切れたと感じるときでした。政治家や企業人のなかには、患者さんが魂の底から発する言葉さえ通じない方がいました。今は都会だけではなく水俣でも、人とのきずなが切れる時代になっております。

 いま書いているのは天草四郎の新作能です。四郎と天草の代官鈴木重成が亡霊になり、原城で語らいます。重成は原城を攻めて手柄をあげ、代官になりますが、農民の困窮を知って幕府に年貢の減免を求め、切腹したといわれます。当時の農民の受難は私のなかで水俣病患者の受難につながります。

 四郎の装束は志村ふくみさんが織ってくださいます。お能が上演されるまで命はあるかしら。でも、寝たきりにはなりたくない。部屋の端から端まで車いすで動くとき、九州から北海道まで行くような時間がかかっても。

 おととしの夏、倒れて大けがをしたとき、記憶を2カ月半なくしました。幻覚はよく覚えています。千尋の谷に落ちる私の足から、チョウが太古の森へ飛びたったのです。あれは私の命かもしれません。こずえの葉が海風に震え、いい音楽が聞こえました。そう、幻楽四重奏。チョウの私はアコウの木の枝にとまり、幸せでした。そのあたりからこの世に帰ってきました。

 私は天という言葉がいちばん好きです。40年ほど前、水俣病の運動のさなかに、こんな句をつくりました。

 祈るべき天とおもえど天の病む

 天とは宇宙ですが、天と言った方が感情を託せます。あの地震のことも引っくるめて宇宙に異変が起こっています。私のなかで天は、今も病んでいますね。(聞き手・白石明彦)

■いしむれ・みちこ 1927年、熊本県生まれ。著書はほかに『椿の海の記』『あやとりの記』『十六夜橋』など。『石牟礼道子全集・不知火』全17巻(藤原書店)が刊行中。

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