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2012年6月20日11時11分
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律令前の「支配」浮かぶ 7世紀末の戸籍木簡出土

写真:国分松本遺跡から出土した木簡=12日午後3時10分、福岡県太宰府市国分4丁目、関田航撮影
拡大国分松本遺跡から出土した木簡=12日午後3時10分、福岡県太宰府市国分4丁目、関田航撮影

図:木簡の裏に書かれている文字拡大木簡の裏に書かれている文字

図:木簡の表に書かれている文字拡大木簡の表に書かれている文字

地図:  拡大  

 7世紀末の「戸籍」木簡が福岡県太宰府市の国分松本遺跡で出土した。最古の戸籍関連史料だ。大宝律令(701年)よりも前に、国家による本格的な人民支配システムが確立しつつあったとの見方はあったが、その物証に欠けていた。今回の発見は、その空白を埋める成果だ。

 戸籍は、国家による人民支配の根幹をなす基本台帳。中央集権支配をめざす政府にとって、これがないと税は取り立てられないし、兵士も徴発できない。

 その詳細がわかるのは本格的な律令政治が始まった大宝律令以後で、大宝2(702)年の戸籍の実物の一部も正倉院に伝わった文書として現存する。だが、その前段階がわからない。飛鳥浄御原令(あすかきよみはらりょう)(689年)の下で庚寅年籍(こういんねんじゃく)が690年に造られたことは知られるものの、資料がないため実態は不明だった。

 ところがこの木簡には、「国」の下に置かれた行政組織「郡」がまだ「評」と呼ばれていた浄御原令期の、筑前国嶋地域(福岡県糸島地方)の住民16人の名が記されていた。庚寅年籍を反映していると考えられ、支配網が既に地方の一人一人にまで及んでいたことをうかがわせる。

 古代の戸籍の書き方を巡る論争にも有力な材料を提供した。正倉院文書の戸籍群は2種類に分けられる。一つは個人ごとに姓も名もきっちりと書く「西海道(九州)型」。もう一つは、戸主の後は苗字(みょうじ)を省き、次に、次に、と名だけが続く「御野(美濃)型」だ。書式の違いは地域差なのか時期差なのかを巡って議論されてきた。

 正倉院文書の中の大宝2年戸籍と出土木簡の内容は、偶然にも同じ筑前国の嶋地域。しかし出土木簡は御野型、正倉院の方は西海道型だ。同一地域なのに書式が違うのは、時期によって書式が変わった可能性をうかがわせる。

 国立歴史民俗博物館の平川南館長は「庚寅年籍では御野型が使われたようだ。だが、個人ごとに把握するには使いづらく、のちの大宝令で新たな西海道型が採用されたのではないか。木簡はそれを見事に裏付けている」という。

 では、今回の木簡の役割は何か。「木簡としては異例に大きく立派。そんなものに書いたのはどんな性格のものか。なぜ紙でなく、木簡なのか」。栄原永遠男(さかえはら・とわお)・大阪市立大名誉教授は首をひねる。

 「附」「去」など住民の増減を意味する文字から、集団構成員の変化を記録したのはわかるが、文字はメモ的でないし、下書きでもなさそうだ。「合点(がってん)」というチェック印があり、実際に何かと照合したらしい。太宰府という地での出土から、筑前国を担当する役所や役人が保管にかかわっていたとはいえそうだ。

 平川さんは「木簡は紙の下書きのように思われがちだが、中央に保管されたものではないし、紙でなくとも木簡だけで十分機能しただろう」といい、戸や構成員の増減を記録する損益帳的な性格ではないかと考える。

 木簡には「兵士」の文字があった。戸籍は全国一律の基準で兵の徴発を貫徹させるための基盤でもある。しかし律令期より前の軍隊は、各地の豪族の軍事力に頼る面も強かったようだ。狩野久・元岡山大教授は「国家が個々人をシステム的に徴発する軍へと、性格が変わったのを反映している」と指摘する。

 小さな板に秘められた歴史的意義は大きい。(編集委員・中村俊介)

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